埼玉新聞

 

震災の経験と教訓、語り継ぐ 阪神大震災から30年 震災10日後に埼玉から神戸へ派遣 元看護師の武者さん 「受け身ではなく、いかに能動的に動くかが大切」

  • 阪神大震災での救護経験を語る元看護師の武者栄子さん=さいたま市浦和区

    阪神大震災での救護経験を語る元看護師の武者栄子さん=さいたま市浦和区

  • 阪神大震災での救護経験を語る元看護師の武者栄子さん=さいたま市浦和区

 1995年1月17日の阪神大震災から30年を迎えた。6434人の尊い命が犠牲となり、防災の原点とされる大震災。前例のない災害に救護者らは何をすべきか苦悩した。震災10日後に被災地の神戸市へ派遣された元看護師の武者栄子さん(76)=熊谷市=は「前例がないからこそ自分で考えて行動しなければならなかった。この地震で得た教訓は今の救助活動にも役立っている」と語る。

 武者さんは当時、大宮赤十字病院の看護師として勤務していた。病院から兵庫県へ救護班4班の派遣が決定。日本赤十字社の実践的な救護訓練に参加しており、「何かあったときには役に立ちたい」との思いから手を挙げた。

 準備に取りかかるが、大規模災害の訓練や救護活動の経験はなく、被災地で何が必要かを自ら考えなければならなかった。先発していた深谷赤十字病院と連絡を取り合い、風邪薬が不足していると知り、大量に用意した。

 車で16時間かけて神戸市に到着した。目に入ったのは倒れた高速道路や傾いた家屋。「これは本当に起きていることなのか。夢ではないのか」

 1月28日に震度6~7を観測した神戸市東灘区の中学校に救護所を設営。校庭には自衛隊が設置した避難者用のテントや仮設トイレが所狭しと並んでいた。トイレは子どもたちが率先して掃除をし、清潔に保たれていたという。

 今までの訓練や救護活動は傷病者が運び込まれてくる「受け身」だったが、今回は違った。発災から1週間以上が経過し、緊急性のある患者は初期治療を終え、救護所に足を運ぶ人は少なかった。

 次の日に避難所へ向かう。体育館に布団が並び、プライバシーは全く確保されていなかった。風邪気味や睡眠不足の人、家族を亡くして孤立している人が多くいた。被災者にかける声に悩み、最低限の会話しかできなかった。「こちらからもっと声をかければ良かった」と振り返った。

 4日間の派遣中も余震が続いた。「いつ大きな地震が起きるか分からない」と不安に感じながら活動した。埼玉へ戻ってからは同僚の看護師らに状況を報告。「今までの救護活動とは全く違う。受け身ではなく、いかに能動的に動くかが大切」と呼びかけた。

 「心のケア」が阪神大震災を機に重要視されるようになった。2000年には日赤の災害救護の研修で「心のケアの手引き」が使われるようになり、被災者への接し方を学ぶ機会が設けられた。04年の新潟中越地震では、新潟県小千谷市に心のケアの専門班が埼玉から派遣された。武者さんは後輩を派遣する立場となり、「命を救うだけでなく、災害から時間がたってからの精神的なサポートも看護の役目」と言って送り出した。

 武者さんは「普段から家族で避難場所を話すなど、災害に備えておくことが重要」と強調した。今は引退した看護師らが所属する「日赤看護師同方会」を通し、能動的な看護師になれるよう、救護経験や教訓を語り継いでいる。

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