絆語るアフガンカレー 浦和区のカフェ土瑠茶 避難男性の味、看板商品に
2002年秋、閉店間際だった。さいたま市浦和区の「カフェ土瑠茶」に一人の男性が入ってきた。「カレーありますか?」。片言の英語で尋ねたのは、アフガニスタンから避難してきたナシム・ハーンさん(55)。その来訪を機に同店オーナー中平勝生さん(82)一家とナシムさんの交流が始まり、アフガンカレーがメニュー入りした。絆を物語るカレーは、彼の出国後も看板商品として提供され続けている。
■出会い
ナシムさんはかつて北部同盟の警察官だった。タリバン政権誕生後、イギリスへの亡命を決意したが、なぜかたどり着いた先は韓国。日本に渡り、空腹のため道端で倒れたところを保護されたという。
その後、ナシムさんは毎日、閉店時を見計らい訪れるように。中平さんの妻順子さん(83)は「喜ぶかなと向こうの民族音楽をかけたら、紅茶を飲みながら涙をぽろぽろとこぼしていたのが印象的だった」と語る。
ナシムさんは夫妻を「お父さん、お母さん」と呼んだ。両親が殺された時も店に来て、「私には日本のお父さんとお母さんがいるから大丈夫。しっかり生きる」と泣きながら話した。
■恩返し
しばらくしてナシムさんが振る舞ってくれたアフガンカレーがあまりにおいしく、店で提供する話が進んだ。中平さんはナシムさんとハラルフード店に買い出しに行き、調理を手伝った。野菜や肉の水分で煮詰めるカレーは「スパイシーだけど油っぽくない」と好評だ。当時、ナシムさんは店の入り口に立って呼び込みまでしてくれた。
「店の目玉商品がなく、せめてもの恩返しだったんだと思う」と懐かしむのは、中平さんの次女・佐藤真由果さん(50)。ナシムさんには妹のようにかわいがってもらったという。
徐々に日本での生活になじんでいったナシムさんだが、難民申請は認められず、最終的に滞在許可が下りなくなった。仕事もできなくなり、支援者による寄付を受ける日々。「大人なのに、他人から恵みをもらって生きていくしかないなんて耐えられない」。12年3月末、ナシムさんは帰国を決意した。「殺されてしまうかもしれない」と止めても、「無事だったら連絡する」と言い張った。
帰国前、中平さんはカレーを振る舞った。その時の一言を今も覚えている。「お父さん、私よりおいしいから合格」
■家族
何の連絡もなく4年が過ぎた。「処刑されてしまったのでは」と不安に思っていたところ、電話が鳴った。「ナシムさんを覚えていますか?」。日本の支援者からだった。
ナシムさんは投獄後、釈放されドイツに逃れていた。本人からの電話で無事が確認でき、「とにかくほっとした」と順子さん。佐藤さんは「2言目が『カレー作ってる? やめてないよね』だった」と笑う。
今も交流サイト(SNS)で連絡を取り合う。ドイツでの生活に慣れ、声の調子も落ち着いてきたという。
ナシムさんと過ごした10年間を、佐藤さんは「言葉や文化、習慣が異なり難しい部分もあるが、結局は同じ人間。関わればこそ生まれるつながりがある。お互いを思い合い、家族のように支え合う貴重な経験だった」と振り返る。今後は県内のマルシェなどに積極的に出店し、カレーを通して絆を伝えていく予定だ。
ナシムさんは「埼玉のパパ、ママ、家族、みんなを愛している。また日本に行きたい」とメッセージを寄せた。









