埼玉新聞

 

サツマイモは太平洋戦争で「決戦資源」 命つないだ代用食 産地の埼玉・川越で語る会 国が燃料製造の原材料として増産を強化 一方でコメなどの代用食として困窮する国民に

  • 茨城県内で試験栽培されている(左から)「農林1号」「護国藷」「沖縄100号」

    茨城県内で試験栽培されている(左から)「農林1号」「護国藷」「沖縄100号」

  • 「太平洋戦争とサツマイモ」について講義する山田英次さん(奥)。左奥はベーリ・ドゥエルさん=14日、川越市元町1丁目の川越サツマイモまんが資料館

    「太平洋戦争とサツマイモ」について講義する山田英次さん(奥)。左奥はベーリ・ドゥエルさん=14日、川越市元町1丁目の川越サツマイモまんが資料館

  • 【地図】川越市(背景薄緑)

    川越市の位置

  • 茨城県内で試験栽培されている(左から)「農林1号」「護国藷」「沖縄100号」
  • 「太平洋戦争とサツマイモ」について講義する山田英次さん(奥)。左奥はベーリ・ドゥエルさん=14日、川越市元町1丁目の川越サツマイモまんが資料館
  • 【地図】川越市(背景薄緑)

 サツマイモは太平洋戦争で「決戦資源」とされた。国が燃料製造の原材料として増産を強化させた一方で、コメなどの代用食として困窮する国民に充てた。川越市内で開かれた「太平洋戦争とサツマイモを語る会」では、専門家が「国民は燃料用のサツマイモを食べて命をつないだ」と戦中戦後の食料不足について講義した。

■三つの目的

 日本のサツマイモの増産政策は、昭和時代初期にさかのぼる。1927(昭和2)年に当時の農林省が、沖縄県農事試験場に「甘藷(かんしょ)生産改良増殖事業」を委託。34年には「沖縄100号」が育成された。さらには「茨城1号」や「護国藷」「農林1号」など、短い期間で育てることができたり多くの量を収穫できたりする品種が相次いで栽培された。

 背景にあったのが、満州事変(31年)から太平洋戦争の終戦(45年)に至る「15年戦争」だ。

 川越市元町1丁目の「川越サツマイモまんが資料館」で14日に開かれた「語る会」では、いずれも同館の共同館長で、川越イモの保存活動に取り組む「川越いも友の会」事務局長の山田英次さん(73)と同会長のベーリ・ドゥエルさん(75)が講義をした。

 山田さんは、サツマイモの増産政策について「主な利用目的は3点だった」と説明。戦争遂行のための燃料用アルコール原料の生産▽総力戦のための食料確保▽食品加工や工業用製品類の資源としての活用―を挙げた。

 なぜ燃料の原料とされたのか。そこには日本の石油資源の乏しさがあった。41年には米国の石油の対日輸出が禁止となり、ガソリン不足が生じた。国はサツマイモから無水アルコールを製造し、軍の航空機などの燃料に代用することに着目したという。

 増産目標は40年に480万トン、終戦の45年には963万トンにまで引き上げられた。しかし実績はそれぞれ74%と40%にとどまった。「目標は達成できなかった」と山田さんは話した。

■国家的危機

 戦争により食料事情は深刻となった。日本は昭和初期、コメを自給できず、植民地の朝鮮半島や台湾などから輸入していた。しかし戦況の悪化で入手できなくなった。

 燃料用の「水っぽい」サツマイモは国民の代用食にされた。41年には「藷(いも)類配給統制規則」の施行で自由販売が禁止されていく。

 食料不足は戦後の社会にも尾を引いた。山田さんは、38~48年の日本の食料事情について「戦争が招いた国家的な大食料危機」と指摘。「特に敗戦前後は、国民は燃料用のまずいサツマイモを食べて命をつないだ」と語った。一方で「食料事情の好転に伴い、サツマイモを軽視する風潮が生まれる」とし、サツマイモの再評価を促した。

 コメなどの不足が顕在化した戦時中には「代用食懸賞競技会」も行われた。ドゥエルさんは、40年の競技会で1等賞になった「さつまいも雑炊」を取り上げて解説した。

 語る会には約15人が参加。43年生まれという男性は講義の後「全てが私の時代だ」と振り返り、サツマイモについて「今でも天ぷらで出てきて、おいしいのは分かっているのだが食べたくない」と話した。

 70代後半の女性は幼少期の体験として「母が毎日イモの粉を練っていた」と回想。「それを蒸したのだと思うが毎日、昼に食べた。うんざりしたが、おかげで大きくなった」と語った。

■大量供出へ、品種切り替え

 サツマイモは戦時中、産地の川越市周辺からも供出された。川越に住みサツマイモの歴史や文化を研究した故・井上浩さんが関係者からの話をまとめた「沖縄100号の味」などによると、周辺では明治時代中期に、現在のさいたま市で誕生した品種「紅赤(べにあか)」を多く生産していた。

 紅赤は特に排水性の土質を選ぶため栽培しにくく、収穫量も少なかった。「供出イモ」は多くの量を収穫することが求められており、農家は「沖縄100号」などの生産に切り替えていった。

 沖縄100号は沖縄県民の常食用に育成された。井上さんは「それは沖縄では食べやすく、味も良いものであった」と記している。

 より多くの収穫量を求められた沖縄100号は、つるの伸びが止まる9月に石灰窒素などを与えると「水ぶくれの大いも」に育った。

 井上さんは「本来の良い味は川越でも出せなかった」と指摘。サツマイモの味が「同一品種でも作る場所、目的、栽培法などにより、大きく変わる」ことを広く教えたとしている。

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