ランクは上位!小川の手綯そうめん 「上品で色が白く風雅な品」 関東の特産物番付、かつては和紙と並ぶ名物だった 当時国内一と評価の川越小麦を使用…昭和の初めに途絶えた名産品、郷土史家が冊子に
小川町在住の郷土史家・内田康男さん(69)が、かつては和紙と並ぶ、地元の特産物だった素麺(そうめん)についてまとめた「名産 小川素麺の歴史」(A5判、72ページ)を発行した。小川といったら「和紙の町」として知られるが、江戸時代末期の関東各地の特産物番付には和紙ではなく、素麺が上位にランクされていた。旧来の手綯(てなえ)素麺の製造は昭和の初めに途絶えてしまったが、内田さんは「多くの人に(和紙に匹敵する名産だった)小川素麺の存在を知ってもらい、後世に伝えたい」とまとめた。
内田さんは中学2年生のころから郷土の歴史に興味を持ち始めた。以来、数多くの旧家を訪ね、古老からの聞き取り、古文書などの調査を行い、小川町全般の歴史研究を続けてきた。その中で1992年、同町農業委員会の依頼で「おがわ農業だより」に小川素麺に関する原稿を執筆。この間、多くの新資料も判明し、今回、改めて冊子にまとめた。
内容は江戸時代から明治、大正、昭和にかけての小川素麺の製造・販売の概況、記された地誌・紀行文、出荷先、機械化、手綯素麺最後の製造家など、36項目を収録。江戸時代の小川素麺に関する各村の古文書や絵図、明治の教科書、大正のころの製麺所の写真、当時使われていた手綯素麺製造用具などの資料が紹介されている。
小川素麺の創始は定かではないが、天明8(1788)年の「小川村明細書帳」の中に「農業の合間に紙・素麺を家業として売買している」との記述があり、これが小川で素麺を製造売買していたことが分かる初見の資料という。
小川素麺は「上品で色が白く風雅な品だった」と伝わる。享和元(1801)年の「武蔵三芳野名勝図会」では、当時国内一と評された河越(川越)小麦を使い小川素麺が生産されていたと記され、すでにその名前が広まり、相当な生産量があったと推定できる。
また、関東の交通の要衝や特産物の集荷地を繁盛順に番付にした江戸末期に出版の「関東自慢繁盛競」には、小川は上位にランクされ、紙ではなく素麺が特産物として記されていた。しかし、その後、江戸近郊でも素麺生産が始まり、明治30年代になると機械化と専業化が進み、旧来の手綯素麺作りは激減、昭和10(1935)年ごろ、唯一残っていた恩田家が廃業、旧来の製法は途絶えてしまった。
内田さんは、当時、小川素麺が名産となったのは「良質な川越小麦を取り寄せて製造、小麦を粉にひく水車が稼働、粉をこねる時に使う水が適していた、大消費地の江戸に近く、出荷に舟運なども使えた」などと分析している。
冊子は500円(送料別)で実費頒布している。問い合わせは内田さん(電話0493・73・1559)へ。










