2020年11月30日(月)

まさか有名な方の作品とは…木食白道の木食仏、埼玉で初確認 北本と本庄の子育地蔵2体「非常に貴重」

「子育地蔵」として親しまれた木食白道の作品と多聞寺長老の根岸洋明さん=北本市本宿の多聞寺
木食白道の作品と判明した清福寺の子育地蔵(宮川進さん提供)

 江戸時代中後期の修行僧で、木彫りの仏を作りながら全国を旅したとされる「木食白道(もくじき・びゃくどう)」の作品が、埼玉県内2カ所の寺にあることが分かった。県内で「木食仏(もくじきぶつ)」が確認されたのは初めてで、関係者らは「白道の研究に一石を投じる貴重なもの」として、さらなる研究の深まりに期待を寄せている。

■45年前の書物から

 木食仏であることが分かったのは、北本市本宿の多聞寺と本庄市北堀の清福寺にあった子育地蔵2体。NPO法人「越谷市郷土研究会」前会長の宮川進さん(81)が、約45年前に刊行された「武蔵野の地蔵尊・埼玉編」(三吉朋十著)を読んでいたところ、この二つの寺に同一人物の作品と思われる子育地蔵があると記載されているのを発見したのがきっかけだ。

 確認された2体は、多聞寺が29・3センチ、清福寺が28・8センチ。どちらも白道の作品の特徴とされる、ほほ笑んだ表情が表現されている。

 同書によると、清福寺の子育て地蔵の背部には「木食日勝作云々」と書かれており、宮川さんは「掲載されていた写真も木食仏のようだと感じた」という。

■白道研究に一石

 9月末、宮川さんはまず多聞寺を訪ねた。宮川さんの話を聞いた同寺長老の根岸洋明(ようめい)さん(78)は「地蔵というので、最初は石で作られたものかと思った。まさか木造のお地蔵様とは思わなかった」と驚いたという。

 その後、宮川さんは清福寺を訪ね、書物に記載されていた通り背部に墨書のある地蔵を確認。後日、多聞寺の本堂で見つかった地蔵と清福寺の地蔵の2体を、日本美術の研究者でさいたま市岩槻人形博物館館長の林宏一さんが確認したところ、木食白道作の木食仏であることが判明した。

 林さんによると作られた年代は、多聞寺の木食仏が寛政元(1789)年、清福寺の木食仏が同3(91)年であることがそれぞれ記されていたという。林さんは「白道の活動の一端を知ることができる、これまでの研究に一石を投じる非常に貴重なもの」と話し、宮川さんも「ほかにも県内には白道の作品が残っているのでは」と期待を寄せる。

■受け継がれる願い

 清福寺の住職塩原秀一さん(56)によると、白道の作品と分かった木食仏は「子育地蔵」として、古くから地元で親しまれてきた。かつてはみこしで担いだり、リヤカーに積んだりして地蔵が近隣集落を回る風習があったといい、現在でも毎年7月上旬、軽トラックの荷台に地蔵を設置して檀家の年番が近隣集落を回っている。塩原さんは「これまでひっそりと続けてきたが、まさか有名な方の作品だとは思っていなかった」と話す。

 根岸さんによると、多聞寺でも昔は子どもが生まれた檀家に子育地蔵が預けられる風習があった。根岸さんが住職になる前に途絶えてしまったというが「白道さんが子育地蔵に込めた願いを受け継いで、檀家の皆さんがお参りできるようにするなど考えていきたい」と話していた。

■木食白道

 1755年、現在の山梨県甲州市出身。円空と並び、江戸時代を代表する造仏聖として知られる「木喰行道」の弟子として造仏活動にいそしんだ。のちに行道と分かれ、個別に活動する。白道が残した「木食白導一代記」によると、関東地方を中心に49寺(県内は19寺)に滞在したことが記録されている。1826年、71歳で死去。

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