埼玉新聞

 

学生8人死亡、期末テスト中に…間一髪で生き延びた女性「人生180度変わった」 奇襲かける爆撃機の記憶

  • 焼夷弾の重りを前に空爆で燻された米の塊を手にする遠藤善子さん

 太平洋戦争末期、杉戸町でも2度の空襲があった。5月25日、米軍爆撃機B29による北蓮沼・大塚地区への焼夷(しょうい)弾の投下で、民家7軒と小学校、寺院が被災し、十数人の死傷者が出た。7月10日にはグラマン爆撃機が県立杉戸高等家政女学校を奇襲し、期末試験を受けるため登校した女学生ら8人が爆弾で命を落としている。最初の空襲を間一髪で生き延びた体験者は「一夜にして人生が百八十度変わった」と語る。

 「戦禍で自宅が全焼し全て失った」。5月25日の空襲で焼夷弾が自宅に直撃した遠藤善子さん(90)は、午後11時過ぎに空襲警報のサイレンが鳴ったため慌てて起きて縁側に出ると、目前にB29が見えた。「あっという間に急下降して落とした無数の焼夷弾が寝室に直撃。そのまま寝ていたら死んでいたと思う」と振り返る。

 当夜、同地域は停電により明かりが漏れていなかったため、建物を標的にした爆撃ではなく、尾翼付近から火を噴いた軍機が航空母艦への帰還を急ぎ機体を軽くするために投下したのではないかと推察されている。

 遠藤さんは燃え広がる炎から逃れるため、両親、姉と共に着の身着のまま収穫間近の麦畑を走り抜け、数百メートル先の隣家へ逃げ込んだ。火の海は600坪の敷地に建てられた新居をはじめ10棟の建物や家財を全て焼き尽くし、倉庫にあった400袋の政府米は1週間以上もくすぶり続けた。

 当時、春日部高等女学校3年生だった遠藤さんは、勤労奉仕として4月から春日部市の軍需工場に鉄砲玉を作りに通っていたが、火災によりしばらく欠席した。終戦後、登校を再開したものの、生活が突如困窮したことにより、焼失した教科書は友人から借りて写した。見舞い品の着物や進駐軍の払い下げのズボンをほどいて自分で制服やコートを縫った。通学用の自転車も失ったため、片道6キロの田んぼ道を歩いて通った。

 高校卒業後は、親から指導を受けながら農業を引き継ぎ、必死に生きた。「多くの人に助けられた分、自分も人の役に立ちたい」との思いから始めた民生委員活動は、72歳まで33年間続けた。88歳の時に瑞宝単光章を受章したことで、「過去のわたしに悔いはなし」と懸命に生きたことを誇りに思えたという。「戦禍で生活が一変し、貧しく苦しい大変な境遇を耐えて生き抜いてきたからこそ今の自分がある」

 今年、90歳を迎えた。コロナ禍の世にも、「戦禍の苦しみは想像を絶する」と不戦の思いは色あせない。今ある平和な生活のありがたさをかみしめながら、農業にいそしむ日々を送る。

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