埼玉新聞

 

仲間とは散り散りに…夫婦を襲った震災、埼玉に移住 夢に見る故郷「仲間とまた生活したい」 #これから私は

  • 「元気のあるうちは2人で農業を続けたい」と意気込む藤田博司さん(右)とヨネ子さん=2月19日、加須市

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から間もなく10年を迎える。被災地から埼玉県内に避難して来た人たちや、復興支援に取り組んできた人たちの今を取材した。

■今も故郷を訪れ模索

 「双葉町に帰って、農業を続けたい。この思いは10年たっても変わらない」。加須市内に住む藤田博司さん(81)と妻のヨネ子さん(80)は口をそろえる。

 福島県双葉町の広い敷地で和牛の生産や有機栽培の米、野菜作りを二人三脚でやってきた。「お互い70歳になったが、体は元気だし、あと10年は続けられそうだね」。夫妻がそう話していた直後に大地震は起きた。

 2人は福島県川俣町や息子が暮らす東京都などを転々とした後、加須市の旧県立騎西高校に移住。現在は市内に住宅を購入し、近場に借りた農地で白菜やホウレンソウなどの野菜栽培に励んでいる。

 「双葉町では牧場で10頭の牛を飼育しながら悠々自適な暮らしをしていた。あの頃の風景は、今でも何度も夢に出てくる」と、博司さんは故郷への思いを募らせる。

 福島第1原発事故後、博司さんが約70年間暮らしてきた双葉町の自宅や農地一帯は、除染廃棄物を管理する中間貯蔵施設の一部となった。「大切な土地を国に譲ってしまったから、もうそこで農業をすることはできない」

 それでも、夫妻は3カ月に1度は双葉町を訪れ、新たな場所での農業生活を模索する。自宅付近の道路の両側には、除染された放射性物質が入った黒い袋が山積みされ、本来あるはずの美しい景色が日に日にさえぎられていく。今年2月中旬に訪れた際も、「復興はまだまだ道半ば」と痛感した。

 原発事故で唯一、全町避難指示が発令された双葉町だが、政府は昨年3月、双葉町駅周辺など一部の避難指示を解除し、来年春には復興拠点の居住再開を目指している。博司さんは「放射線量が低下しても、しばらくは生活が制限される。自分の目で確かめて、住みたいという環境にならない限りは戻る気はない」と話す。

 昨年3月まで双葉町埼玉自治会の会長を務めた博司さん。「昨年はコロナの影響でできなかったが、騎西夏祭りなどのイベントで双葉音頭を踊らせてもらったり、騎西音頭に参加させてもらったりと、いろいろな方に支えられた。加須市長の『最後の1人まで支援します』という言葉はずっと心に残っている」と感謝する。

 ヨネ子さんは、被災後に旧騎西高校前に開園した「双葉町元気農園」のメンバーに野菜作りを指導するなど、加須市でも農作業に精を出す。「双葉と加須では気温の差が異なり、栽培方法で何度も失敗を繰り返してきた。野菜作りを通して、多くの人とつながりを持てた」

 双葉町の仲間とは散り散りになり、今では居場所が分からない人が大半。震災から10年がたち、ヨネ子さんは「ここで農業を続けたいという気持ちもあるが、双葉町の仲間とまた生活したいという思いも強い。今後の復興次第で先はどうなるか分からないが、とにかく元気のあるうちは2人で農業をやり続けたい」と力強く語った。

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