埼玉新聞

 

銃で撃ち抜かれる仲間、炎を浴びる人々…戦後75年 羽生の男性、東京大空襲を語る 記憶に残る黒焦げ死体

  • 東部10部隊に配属されたころの田沼杵太郎さん

  • 戦争体験の授業を行い、新郷第一小学校の生徒にもらったお礼の色紙を手にする田沼杵太郎さん=羽生市の自宅

 「B29爆撃機が上空約1万メートルから計36本に束ねた焼夷弾(しょういだん)を落下。上空約700メートルで分解され、散らばった無数の子爆弾が家屋に突き刺さり、瞬く間に炎が上がった」。羽生市の田沼杵太郎さん(96)は、東京を襲った空襲の中で最も被害が大きかった1945年3月10日の東京大空襲の惨状を目の当たりにした。地元の小学生に戦争体験を伝えており、「命のある限り、戦争の恐ろしさを伝えていく」と力を込める。

 44年9月に徴兵検査に合格した田沼さん。習志野練兵場で3カ月間の演習訓練を積んだ後、東京都本所区(現墨田区)の東部10部隊に配属された。

 当時は、血気盛んで食欲旺盛な20歳。上官の厳しい指導に従い、敵機の襲来に備えていたが、「常に腹が減って、戦どころではない。こんな状況で果たして日本は勝てるのか」と不安を拭えなかった。息抜きであるはずの食事は、モロコシの一種「コーリャン」を手のひらにいっぱいだけ。まるで鳥のえさを食べている感覚だった。

 11月下旬から、米軍の大規模な戦略爆撃が東京で始まった。キーンキーンと鋭い金属音とともに何機ものB29が現れる。「あんなのに勝てるわけがない」と思いながらも、拳銃を握り、敵機に向かって射撃した。目の前には、機銃掃射で打ち抜かれる仲間や、炎を全身に浴びながら懸命に逃げ回る住民たちの姿があった。

 45年3月10日の無残な光景は、今でも頭から離れない。木造家屋が密集する本所地区に容赦なく無数の焼夷弾が投下される。炎が四方から迫り、逃げ場を失った住民は、水を求め、次々と川に飛び込んだ。「3月中の真夜中で水も冷たかった。みんな凍えていた」と振り返る。

 戦況の悪化とともに、靖国神社付近の大通りには、兵士や都民らの無残な黒焦げの死体が並ばれていった。「一体、いつまでこの状況が続くのか」。田沼さんの終戦を願う気持ちは日に日に高まっていった。

 8月15日。田沼さんは玉音放送を都内で聞いた。ラジオから流れる天皇の声は聞き取りづらく、最初は「軍隊も苦戦しているが、頑張って日本を守ってほしい」という激励の言葉だと思っていた。あとで日本が負けたのだと知り、「これで、人間らしく生きられる」と安堵(あんど)した。

 田沼さんは現在、羽生市立新郷第一小学校の6年生たちに戦争体験の授業を行い、戦争の恐ろしさを伝えている。生徒たちは、田沼さんへの感謝の気持ちと、「ごはんを残さずに食べないと、昔の人に申し訳ないと思った」「私たちは平和な世界、争いのない世の中にしていきたい」などと思いをつづった色紙を田沼さんに贈っている。

 戦争体験の授業を続けて20年以上が経過。田沼さんは「自分の命のある限り、若者たちに戦争の恐ろしさを伝えていく」と目を輝かせた。

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