埼玉新聞

 

永久に帰らぬ…玉音放送の2日後、8月17日に特攻命令「生まれて来る命の顔を見ずに逝くのは残念」 出撃直前に命令取り消し、昭和を生き抜いた飛行兵に焦点当てた企画展 桶川で10月12日まで

  • 桶川分教場で練習機に乗り操縦訓練をする山田孝さん

    桶川分教場で練習機に乗り操縦訓練をする山田孝さん

  • 山田孝さんが妻に宛てた遺書や家族写真などの展示を見る来場者

    山田孝さんが妻に宛てた遺書や家族写真などの展示を見る来場者=桶川市川田谷の桶川飛行学校平和祈念館

  • 【地図】桶川市(背景薄緑)

    桶川市の位置

  • 桶川分教場で練習機に乗り操縦訓練をする山田孝さん
  • 山田孝さんが妻に宛てた遺書や家族写真などの展示を見る来場者
  • 【地図】桶川市(背景薄緑)

 「この訪れ吃驚(びっくり)するナ 敵は明十八日本土に上陸する 今朝攻撃の命下る」。太平洋戦争の終結を知らせる玉音放送の2日後、1945年8月17日に特攻命令を受けた飛行兵山田孝さんが妻に書いた遺書だ。桶川飛行学校平和祈念館(桶川市川田谷)で開催中の企画展「昭和100年企画 終戦後の特攻命令」では、出撃直前に命令が取り消され、その後の昭和を生き抜いた山田さんに焦点を当てている。8月1日から始まり、これまでの来場者は2千人を超えた。訪れた人たちは当時の資料とともに、戦争と昭和を考える時間を過ごしている。同展は10月12日まで。

 山田さんは福岡県西牟田村(現築後市)生まれ。農家の三男だったため、18歳の時に志願して陸軍に入隊した。旧満州(中国東北地方)で砲兵の任に就いた後、飛行兵になった。38年12月、20歳で熊谷陸軍飛行学校に入校。桶川分教場などで約2年間学び、航空技術を習得した。

 陸軍准尉となり、東南アジアやニューギニアなどの南方戦線を転戦したが、44年に負傷とマラリアの発症によって日本に送還され、入院生活を送ることになった。退院後は加古川飛行場(兵庫県)などで後輩の育成に当たった。

 終戦は古里に近い佐賀県の目達原(めたばる)飛行場で迎えた。しかしその2日後、特攻命令を受ける。山田さんは妻の輝子さんへの遺書を急いで同僚に託した。「今日は夕方帰れると思って居(い)たが もう永久に輝子達の膝許(ひざもと)には帰らぬ」と。当時1歳半の長男や、間もなく生まれる子どもへの思いもつづった。「孝輝の将来はよろしく 今度生まれて来る小さき命の顔を見ずに逝(い)くのは残念だが これも宿命と諦めて征(い)く」と覚悟を決めた様子がうかがえる。

 山田さんの出撃が中止となった経緯は不明。同館の関根真主幹によると「終戦直後は非常に混乱していた。桶川分教場も将校がいなくなってしまい、解散命令が出なかった。山田さんの特攻命令の中止もそんな状況の中だったと思う」と話す。

 その後、山田さんは古里の福岡県に戻り、農業をしつつ大川市の木材市場で働いた。87年に69歳で亡くなるまで戦後の昭和を生きた。生涯、戦争体験についてあまり語らなかったという。

 企画展では遺書の複製をはじめ、山田さんの愛用カメラや戦中戦後に撮影した写真など約40点の資料が公開されている。長男孝輝さん(82)が父について語るインタビュー映像もある。

 熱心に展示を見ていた川口市の自営業島沢真一郎さん(52)は「戦争のことを知りたいという彼女を連れてきた。以前から関心があったので、とても考えさせられた。もっと大勢の人に、特に若い人に見てもらいたい」と話した。

 開館時間は午前9時~午後4時半。入場無料。祝日を除く月曜と9月24、30日は休館。10月10~12日は午後2時半と同6時の2回、職員による展示解説が行われる。各回約30分で定員20人。当日申し込み。

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