埼玉新聞

 

父死去…幼い娘を抱いた後に戦争へ 戦地に行く前に母娘が職場を訪れ、駆け寄った父…終戦14日後に亡くなる 父の顔を覚えていなかった娘、軍服の伯父を見て「帰ってきた!」と叫ぶも死去の知らせ 娘後悔、泣く母

  • 波戸悠美子さんを抱く父高橋鹿之助さん(波戸悠美子さん提供)

    波戸悠美子さんを抱く父高橋鹿之助さん(波戸悠美子さん提供)

  • 父母の写真を見つめる波戸悠美子さん=8月21日、さいたま市南区

    父母の写真を見つめる波戸悠美子さん=8月21日、さいたま市南区

  • 波戸悠美子さんを抱く父高橋鹿之助さん(波戸悠美子さん提供)
  • 父母の写真を見つめる波戸悠美子さん=8月21日、さいたま市南区

 さいたま市南区の波戸悠美子さん(85)には父親の記憶がほとんどない。波戸さんが5歳だった1945年8月29日、父高橋鹿之助さん=当時(31)=はビルマで戦傷死したからだ。「戦争は終わっていたのに」。母からもほとんど話を聞けないまま今に至る。「どんなお父さんだったのか」。戦後80年、記憶の片隅に残る父の面影を探す。

 戦後まもなくの夏だったと記憶している。当時住んでいた北九州の自宅に誰かが訪ねてきた気配を感じて玄関に行くと、男の人が立っていた。兵隊帽に軍服姿。「とうちゃんが帰ってきたあ!」。思わず叫んで母のところに駆けたが、男性は父の戦死を知らせに来た伯父だった。物心ついた頃には家に父はおらず、顔が分からなかったのだ。

 母と1歳下の妹と机に並び、礼儀正しく伯父の話を聞いた。その場で母が取り乱すことはなかったが、翌日以降は近所の人が来るたびに泣いていた姿を思い出す。小学生の時には、父の遺骨箱が届く。白い風呂敷で包まれ、とても軽かった。「紙切れが入っているらしい」と母は言った。

 父の死後、母は洋裁の仕事をしながら幼い娘2人を育ててくれた。生活は苦しく、波戸さんは妹と一緒に自宅裏のがれきの山を「何か使えるものはないか」と探したことを覚えている。母は時々、父の洋服を田舎に住む親戚のところへ持っていき、米と換えてもらっていたという。

 波戸さんの胸に残るのは、伯父の姿を見て口にした一言への後悔。「(母は)一瞬、『うれしい』と思ったんじゃないかって。ものすごく罪なことをしたという思いがずっとあった」。その時の気持ちを尋ねることなく、波戸さんが25歳の時に母は病気で亡くなった。

 小学3年生の頃に母が再婚したことで、遠慮して父のこともほとんど聞けずじまいになってしまったが、今も忘れない出来事が一つある。母に手を引かれ、妹と3人で門司港の線路沿いを歩き、たどり着いたのは父の仕事場。駆け寄ってきた父が、ぱっと抱きかかえてくれたのだ。

 「戦況の激しい場所に行かされる前に、家族に会わせたんじゃないかと思う」。波戸さんはそう推測する。その後、父はビルマに出征し、終戦14日後の8月29日に亡くなった。「戦争が終わり『日本へ帰るぞ』という時に父は亡くなった。悲しかっただろうな」とうつむく。

 日本が終戦を迎えた後も、世界では戦争が続いている。父のことを思い出したり、ニュースを見たりするたびに「何のために戦争をするのか。みんな同じ人間なのに」と悲しくなる。戦争によって父を奪われ、思い出を作ることもままならなかった。「子どもにどんなふうに接したお父さんだったのか。お父さんの味(人柄)やにおいを知りたい」。戦後80年たった今も、父への思いは募る。
 

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