埼玉新聞

 

泣き叫ぶ…焼けて皮膚が垂れた人々「助けて」 気絶した女性看護師16歳、目覚めるも怖くて何もできず 悲惨な原爆 被害は報道されず、仕事中に襲う原爆症は理解されず…周囲から暴言「怠け者」 #戦争の記憶

  • 参加者に向けて被爆体験を語る服部道子さん=蕨市

    参加者に向けて被爆体験を語る服部道子さん=蕨市

  • 参加者に向けて被爆体験を語る服部道子さん=蕨市

 80年前に当時16歳で被爆した蕨市の服部道子さん(96)が「戦争を語る」と題して、同市の福祉・児童センターで講演した。「(核の)ボタン一つでこんなに悲惨なことになる。戦争は絶対にあってはならない」。参加した子どもたちに自身の被爆体験を語るとともに、戦後80年を迎え、戦争の愚かさと平和の尊さを強く訴えた。

 服部さんは1945年3月に女学校を繰り上げ卒業後、広島の軍医部に嘱託職員の看護師として働いていた。8月6日、爆心地から約3キロ離れた場所で勤務中に被爆し、気を失った。

 目覚めると、辺り一面が焼け野原だった。皮膚が垂れ下がった人々が服部さんに助けを求めていた。「最初は怖くて何もできなかった」と服部さん。泣き叫んだり、叫ぶ声も聞こえた。看護師として救護しなくてはと思いながらも、悲惨な状況を当初は受け止められず、「怖くて何もできなかった」という。

 戦後は差別や偏見などに苦しんだ。報道が規制され、広島で起きた原爆被害や原爆症が社会にきちんと伝わっていなかった。ひもじさから他人の家になっていたリンゴを食べてしまったこともある。祖父母の家で干し柿を食べた時には下痢や便秘に悩んだ。原爆症の影響で、慢性的な倦怠(けんたい)感もあり、仕事中は周囲から理解されず「怠け者」と言われたこともあった。心に大きな傷を負った。

 講演会では紙芝居や動画を使って、被爆体験や戦後の苦悩などが伝えられた。戦前から服部さんら家族が使用していた蚊帳も会場に設置され、実際に中に入る体験も行われた。

 参加した同市の加藤里咲さん(21)は「生で戦時中の話を聞ける機会は貴重。自分たち若い世代が継承していかなくては」と思いを強くした。服部さんと親交があり、戦争体験継承者として講演した菅田紗央里さん(37)は「戦前は今と変わらない平和な日常もあった。戦争前後を含めて知ってもらえれば、一人の人間として通じることがあると思う」と語った。
 

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