埼玉新聞

 

母が一喝「見るんじゃない」 遺体を火葬する炎…言葉で表せない臭いも 熊谷空襲80年、重い口を開き始めた被災者「事実を伝え残していかなければ」 歴史の教訓を…若者の取り組みも動き出す

  • 熊谷空襲当時の様子を語る藤野進さん

    熊谷空襲当時の様子を語る藤野進さん=熊谷市内

  • 空襲で焼け野原となった熊谷市の市街地(市立熊谷図書館提供)

    空襲で焼け野原となった熊谷市の市街地(市立熊谷図書館提供)

  • 熊谷空襲当時の様子を語る藤野進さん
  • 空襲で焼け野原となった熊谷市の市街地(市立熊谷図書館提供)

 1945年8月14日深夜から15日未明にかけて、熊谷市は米軍の空襲を受けた。中心市街地は3分の2が焼け、公称で266人が犠牲となった。終戦の日に行われた焼夷(しょうい)弾による攻撃は、太平洋戦争最後の空襲の一つとされる。80年の節目を迎え、これまで体験をあまり口にしてこなかった被災者が語り始め、当時の状況をしたためた記録も新たに発見。歴史の教訓を受け継ごうとする若者の取り組みも動き出している。

■肩と太ももに破片

 2歳8カ月の時に熊谷空襲を経験した藤野進さん(82)は、現在も当時とほぼ同じ場所に住んでいる。かつて、墨江町と呼ばれた地区だ。ここを流れる星川では、100人近い人々が命を落としている。空襲があった日、靴職人だった父の覚三郎さんは召集されて出征中。藤野さんは母のアサ子さん、弟の寛さんと暮らしていた。3人は店舗と作業場を兼ねた自宅で、南側の星川に面した居住スペースの寝室で眠っていたという。

 米軍機が襲来した時、藤野さんはアサ子さんに起こされた。母は既に寛さんを背負い、避難する準備を完了。藤野さんも急いで防空頭巾をかぶり、げたを履いて一緒に家を飛び出した。「照明弾の光だと思うが、昼間みたいに明るかった。『シューッ』というものすごい音も。通りに出たら、熊谷駅の方は真っ赤に燃えていた」と振り返る。

 藤野さんはアサ子さんに手を引かれ、南の荒川方面へ走った。国鉄(現JR)と秩父鉄道の線路を渡り、桑畑の広がる道を避難。荒川大橋の下で一夜を過ごした。「逃げる時は夢中だったけれど、ずきんずきん痛むので見てもらったら、左肩と左太ももに焼夷弾の破片が刺さっていた」と藤野さん。左肩の傷痕は、今もうっすら残っている。

 一方で、不思議な感覚もあった。「爆弾がどんどん落ちてきて怖かったけれど、花火みたいできれいだとも思ってしまった」と言う。

■遠巻きの見物、叱る母

 夜が明けて戻ると、光景は一変していた。藤野さんは「ほとんどの建物が燃え、運動場のように見晴らしが良くなっていたので驚いた」と回想。自宅を失った一家は、焼け残った近所の小屋に住まわせてもらうことになった。

 被災者の多くは、郊外の身寄りなどを頼っていったん市街地を離れたが、藤野さんたちはとどまったため、その後の様子を目にすることになる。近くにあった円照寺の前では、住職らが焼け残った材木などを集めて、何かに火を付けて燃やした。遠巻きに見ていた藤野さんは、アサ子さんに「見るんじゃない」と一喝される。それは、星川で力尽きた人々の遺体を火葬する炎だった。藤野さんは「自分のいる所まで、臭いがしてくるんです。言葉では表せないような臭い」と、今でも鮮明に思い出す。

■米テレビ局の取材も

 藤野さんはこれまで、自身の体験をあまり語らなかった。話したことはあるが、「3歳にもならない頃のことを覚えているわけがないだろう」と言われたからだ。それでも強烈な経験は、幼い心に深く刻まれていたという。

 だが、戦後80年に当たり、重かった口を再び開こうと考えるようになった。最近も、米CNNテレビの取材を受けたという。藤野さんは「この地区に住む人たちで当時のことを証言できるのは、私ともう1人ぐらいしかいなくなってしまった」と明かす。

 熊谷空襲の体験談は、刊行物にも収められているが、自身の記憶と違う部分もあるという。藤野さんは「私たちがいなくなったら、話せる人が存在しなくなってしまう。妻や子どもにも語ってこなかったが、事実をきちんと伝え、残していかなければいけない」と思いを吐露した。

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