日航機墜落40年 深谷の医師・緒方伸男さん、御巣鷹の記憶後世に「風化させてはいけない」
1985年の日航ジャンボ機墜落事故から12日で40年を迎える。羽田空港を出発した日本航空123便は群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に墜落、乗員乗客520人が犠牲になった。当時、群馬県吾妻町の原町赤十字病院に勤務していた医師で、現在は深谷市で緒方医院を営む緒方伸男さん(77)は事故現場に駆け付けて生存者4人の容体を確認している。「間もなく事故から40年になるが、風化させてはいけない」と語る。
■生存者の容体確認
「群馬に落ちた。すぐに出勤しろ」。85年8月13日朝、原町赤十字病院の外科部長だった緒方さん方の電話が鳴り、院長から呼び出された。前日に事故を起こした日航ジャンボ機は長野県に墜落したという情報があり、同僚らと「関係ないね」と話していた。上野村に向かい、前橋赤十字病院の医師、看護師2人とヘリで事故現場に飛び立った。
ヘリの中で教えてもらった方法で降下すると、現場は立つのがやっとの急斜面だった。周囲は木がなぎ倒され、火がくすぶって焦げ臭かった。生存者の情報は聞いていて、「瀕死(ひんし)の重傷ではないかと思っていたが、意外と元気だった。現場ではできることが限られ、とにかく病院に運ぶしかなかった」と早期の搬送を頼み込んだという。
生存者は搬送され、別の医師が付き添ったが、緒方さんと看護師は現場に取り残された。「当時は指揮系統もぐちゃぐちゃで、待っていてはいつ帰れるかも分からなかった」と振り返る。自衛隊員に依頼してヘリに同乗したが、長野県側の本部に運ばれたため、再び自ら交渉して上野村の本部にヘリで運んでもらった。遺体の搬送に備えて待機していたが、搬送されず、その日のうちに帰っていった。
■陰謀説に危機感
日航ジャンボ機墜落事故は78年に米ボーイング社の作業員が後部圧力隔壁の修理でミスをして亀裂が発生し、日航の点検でも発見できなかったのが原因とされる。一方で、最近は「自衛隊のミサイルで撃墜された」「自衛隊が証拠隠滅のため火災放射器で現場を焼却した」などという「自衛隊陰謀説」がインターネットで広がっている。
「当時の現場は本当にすさまじく混乱していて、そんなことが起こるなんて考えられない」と証言する。これまで事故について自分から積極的に話すことはなかったが、長い年月で事故が徐々に風化されてきたことに危機感を抱き、心境が変わった。「脚光を浴びない生存者がかわいそうだが、事故について知らない人もいる。当時を知る関係者も少なくなってきたので、自分でできることはしていきたい」と話した。










