埼玉新聞

 

<月曜放談>恐怖に震えた白血病…骨髄バンク当時なく、今年は設立30年 1歳の子を救った男性の思い

  • 大谷貴子氏

 2021年12月18日に日本骨髄バンクは30歳の誕生日を迎える。

 私は1986年12月に25歳で白血病に罹患し、約1年後の88年1月に名古屋で骨髄移植を受けた。この1年間の苦しみが今でも私を突き動かす原動力となっている。骨髄移植を受けるためには、ドナーと呼ばれる骨髄提供者が必要。当初、そのドナーに巡り合えず、病状が悪化する中、ぎりぎりの状態で母からの骨髄提供で九死に一生を得た。

 「ドナーが見つからない」。死を感じながらの日々は、今、思い返しても恐怖に震える。そして、何より、日本に骨髄バンクが存在しないという事実は、さらに恐怖だった。それゆえに、母がドナー候補と分かる前から「日本に骨髄バンクを!」と声高に叫び、それが、私の骨髄バンク設立運動の始まりだった。闘病中にもかかわらず、87年夏に本格的な活動を始めると、すぐに同じように行動をしている人々と出会う。

 その後、無事に退院し、再び活動に参画し、名古屋を拠点する民間骨髄バンク・東海骨髄バンクを設立。東海骨髄バンクに登録してくださっていたドナーさんからの骨髄移植を89年9月に実施することができた。これが、いわゆる日本での第1号のドナーさんとして、メディアでも多く公表された。

 一方、日本骨髄バンクの設立が最終目標だったので、広く署名活動を繰り広げ、91年12月18日に日本骨髄バンクの誕生となった。

 さて、前置きが長くなったが、この頃、「本当に見ず知らずの他人のために、自らの骨髄を提供する人が存在するのか」とよく言われたものだった。実は、公表されている第1号ドナーさんの7カ月前に、埼玉県の人が、神奈川県の当時1歳の男の子に骨髄提供をしていたのである。この事実は私たちの気持ちを大きく勇気づけた。その方とは笠原慶一さん。名古屋で活動を続ける私と埼玉とで距離はあっても、のちに同志となった。

 笠原さんはその後も一貫して、埼玉骨髄バンク推進連絡会の会長としてバンクの普及に尽力。72歳になった今もボランティア活動を続けている。今回、改めて聞いてみた。「なぜ、自分の子でもないのに、しかも、見ず知らずの子どもなのに、全身麻酔をかけてまで骨髄提供ができたのですか」と。「僕に人助けができるんだと。とにかく、うれしかったですね」と豪快に笑いながら答えていただいた。今、その患者さんは33歳。笠原さんが彼を助けた39歳に近づいてきた。きっと素敵な青年に成長されていることだろう。私までうれしくなる。

 笠原さんが骨髄提供をしてくださったのが事実上の日本の第1号。私はそこから始まった骨髄バンクだと思っている。今や、骨髄バンクへの登録者は累積で87万4045人。その中で実際に骨髄提供をしてくださったドナーさんは2万6018人になった(21年10月末現在)。

 1人の方にドナー登録していただくには、10人の家族や職場の方々の協力が必要。10人の方に協力していただくには、100人の方にドナー登録を理解していただく必要がある。100人の方に理解していただくには、千人の方がまずは骨髄バンクという名前を知っていただかねばならない、と言われている。

 その全てにかかわって骨髄バンクを支えてくださった何万人という方々に30年の節目に改めて感謝を申し上げるとともに、今なお、白血病などの血液難病で苦しむ人たちが1人でも多く、1日でも早く、笑顔が取り戻せるよう、これからも努力していく所存である(日本骨髄バンク評議員・大谷貴子氏寄稿)。

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