埼玉新聞

 

可能性はある…病で亡くなった父の会社、負債10億円以上の赤字会社に 腹を決めた娘が社長就任、3年後には単年黒字化を達成 会社の未来と社員の意識を変えた成功体験とは

  • 社名が刻まれた正門の前で笑顔を見せる日本電鍍工業の伊藤麻美社長

    社名が刻まれた正門の前で笑顔を見せる日本電鍍工業の伊藤麻美社長=さいたま市北区日進町

  • めっき加工した楽器の部品(日本電鍍工業提供)

    めっき加工した楽器の部品(日本電鍍工業提供)

  • 【地図】さいたま市北区(背景薄緑)

    会社のある、さいたま市北区の位置

  • 社名が刻まれた正門の前で笑顔を見せる日本電鍍工業の伊藤麻美社長
  • めっき加工した楽器の部品(日本電鍍工業提供)
  • 【地図】さいたま市北区(背景薄緑)

 さいたま市北区日進町に本社と工場を構える「日本電鍍工業」は金・銀・プラチナ・ニッケルなどのめっき加工だけでなく、アルマイト加工や電着塗装なども受注する表面処理のエキスパートだ。用途は電子部品や楽器、医療関係のほか、同社の原点といえる時計など多岐にわたる。

 会社設立以来の中心となるのがめっき加工で、オリジナル約20種類を含む50種類超の豊富なめっき液を保有。めっき液を自社開発している企業は数少なく、金めっきなど種類によっては100マイクロメートルまで厚付が可能だ。全ての工程は手作業で行う。培ってきた独自の技術力を生かし、客の用途やニーズに応えるとともに、最適な表面処理方法を提案できるのが強み。1点から量産まで対応する「多品種変量生産」を実現する。

■どん底から出発

 会社は伊藤麻美社長(58)の父光雄さんが1958年に設立。めっき液を独自開発する技術力と職人の技が高く評価され、多くの一流時計メーカーからめっき加工を依頼されるなど業績は順調だった。

 しかし91年に光雄さんが病に倒れ志半ばで亡くなると、バブル崩壊後に時計メーカーの生産拠点が次々と海外移転しているのにもかかわらず、後任社長は需要の少ない時計に固執し、新工場を建設するなど放漫経営で業績は低迷。2000年3月に伊藤社長が32歳で就任した際、負債10億円以上で赤字会社に転落していた。

 伊藤社長はラジオのパーソナリティーを経て1999年秋まで米カリフォルニアに留学。宝石学校で宝石鑑別士の資格を取得するなど、経営もめっき事業も全くの素人だったが、財務状況から再建へ引き受けてくれる経営者はなく、腹を決めた。「父がつくった会社なので可能性はあると思った。反対する意見が多かったが、やる気に満ちていた」

 就任してまず始めたのが毎朝、社員全員にあいさつし、名前と顔を覚えること。当時32歳の女性社長に対して社員の平均年齢は59歳。あいさつを無視されることも多々あったが愚痴や不平不満を聞き、掃除や草むしりを率先して行うことで打ち解けていった。

■新規開拓に未来

 生き残りを懸けた新規開拓では医療、美容、健康の分野に目をつけ営業すると、医療機器メーカーからカテーテルを目的部位まで誘導するためのガイドワイヤーのめっき加工依頼が来た。他のめっき会社に「技術的に難しい」と断られたという案件で当初、社員たちも「できない」と拒否的な意見が多かった。それでも伊藤社長が「やってみないと未来につながらない」「うちの技術があれば解決策が見つかる」と粘り強く説得すると、2人の社員が「やってみます」と名乗り出てくれた。

 難題だったが数カ月かけて製品を完成させた。時計依存から脱却するすべを見いだし、徐々に受注も増え、就任3年後には単年黒字化を達成した。

 この成功体験が会社の未来と社員の意識を変えた。「最初からできないことは存在しない。やろうとするか、しないか」と伊藤社長。「知恵を振り絞って何度も挑戦し、成功した時の喜びは何物にも代え難い」とものづくりの魅力を語る。どん底から始まり、四半世紀で多分野の表面処理を担う企業へと生まれ変わり、年間売り上げは約10億円に。「目標は100年・100億企業、社員の夢をかなえる企業です」と笑顔を見せた。

【メモ】日本電鍍工業 さいたま市北区日進町1の137▽電話048・665・8135

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