2025年正賞・準賞
埼玉文学賞とは
埼玉新聞社創刊25周年を記念して1969年に制定した「埼玉文学賞」は文学を志す人たちを長年にわたり支援してきました。今年で56回。毎年幅広い年代から作品を集め、県内外から注目される文学コンクールです。小説、詩、短歌、俳句の4部門。埼玉りそな銀行から特別協賛をいただいております。
第56回埼玉文学賞審査員
| 小説部門 | 須賀しのぶ | 新津きよみ | 三田完 |
|---|---|---|---|
| 詩部門 | 秋山公哉 | 木坂涼 | 田中美千代 |
| 短歌部門 | 沖ななも | 田中愛子 | 内藤明 |
| 俳句部門 | 鎌倉佐弓 | 佐怒賀直美 | 山﨑十生 |
表彰式
小説部門正賞
天晴ウォッチ
日高博(66)=ひだか・ひろし=坂戸市
1
瀬川夏彦が小学生だったころ、川越で一番高い場所は丸広百貨店だった。
屋上の観覧車が撤去されて、すでに半世紀が経っていた。南口のニューエリアにはタワーマンションが建ち並び、その一棟に夏彦は住んでいる。リビングでコーヒーを飲んでいると、モニターに宅配物到着のメッセージが点滅した。八十八階のエレベーターホールに設置された宅配ボックスには、手のひらほどの箱が届いていた。
送り主はシルバー庁。昨年、厚生老人省が高齢者福祉のために設立した新しい省庁だ。還暦を迎えると腕時計が送られてくる。その名は「Appale Watch」。いわゆるスマートウォッチだが、これを手首に装着すると現金もスマホも身分証明書も不要になる。毎日の体調チェックはしてくれるし、徘徊老人になってもすぐに見つけてくれるという。ただし、盗難や紛失、犯罪防止のため、いったんはめると二度と外すことができない。
「こんなの手錠じゃないか」
夏彦は苦々しくつぶやいた。かつて国民を管理する「マイチップ」計画があった。学歴、年収、家族構成、犯罪歴などの個人データをマイクロチップにインプットし、身分証明書や運転免許、健康保険証も不要にするシステムだ。もともとペット用のマイクロチップを人間に応用したもので、国民は強く反発し、各地で反対デモが起こった。「国民マイチップ法案」はあっさり廃案になった。
あれから十年。今度は「天晴ウォッチ」が登場した。前回、法案を通せなかった政府は、腕時計型の国民管理システムを水面下で進めていたのだ。まずは人口の四十%を占める六十歳以上に狙いを定め、この世代に普及させ、将来的には国民全員に装着させるつもりらしい。
大手広告代理店が命名した「天晴」に批判はあったが、便利さからいつしか誰も文句を言わなくなった。むしろ六十歳以下にも早く配布すべきだという声すらある。マイチップには批判的だったジャーナリストや辛口コメンテーターも、なぜか天晴ウォッチは絶賛していた。
天晴ウォッチには説明書がない。腕に装着するとカチンと音を立てロックされ、瞬時に起動する。文字盤には『あなたに天晴人生』と表示される。つけずに放置するとアラームが鳴り、『あなたの誕生日から7日以内に装着することが厚生シルバー法により義務づけられています。違反した場合、五年以下の懲役もしくは五百万円以下の罰金に処す』と忠告される。
「どうしたらいい?」
夏彦は妻・沙耶香に尋ねた。
「なぜ迷ってるの」
沙耶香は左袖をめくった。
「してたのか」
夏彦が奥歯を噛んだ。
沙耶香とは日ごろほとんど会話がなく、夫婦というよりルームシェアの同居人のようだった。たまにリビングで顔を合わせ、「元気か」「うん」と会話する程度だ。沙耶香が三か月前に六十歳になったことも、すっかり忘れていた。お互いの誕生日を祝ったのは、三十年も前のことだった。
「六十歳になったら人間も機械もバージョンアップしないとゴミ扱いよ」
沙耶香の言葉には鋭いトゲがあった。沙耶香は「AIプロンプト・エンジニア」だ。小説家でありながら、AIにストーリーを作らせる技術を持つ。彼女がキーワードを入力するだけで、恋愛小説でもSFでも時代小説でも、数日で完成した。あとは登場人物の個性や会話、時代に合わせた表現を加えるだけだ。書き上げた作品は電子書籍化され、フル3DCGでデジタルヒューマンが演じるドラマとして配信される。もはや小説家、脚本家、演出家、俳優などの職業は、この世から消えつつあった。
沙耶香はかつてライトノベル作家で、担当編集者が夏彦だった。歳が同じだったこともあり、気兼ねなく話せた。スランプの時、夏彦は励まし、アドバイスを与えた。その後二人は結婚し、沙耶香はファンタジー小説でヒット作を連発。アニメ化も成功し、現在はAIプロンプト・エンジニアとして第一線で活躍している。
「六十歳以上は九十九%が天晴ウォッチをつけているのよ。あなた、残りの一%になりたいの?」
沙耶香の言葉が夏彦の胸に突き刺さった。
(どうしようと俺の勝手だ)と心で怒鳴り、夏彦は「ちょっと出かけてくる」と家を出た。久しぶりの会話は不快な気分だけを残した。
むしゃくしゃした夏彦は、高校時代からの友人・野島浩一に連絡を取った。
「珍しいな、夏彦から誘うなんて」
久しぶりに会う野島は若々しく見えた。
「聞きたいことがあってさ」
「もしかして、これか?」
野島は左腕の天晴ウォッチを見せた。
「なんだ、してたのか」
夏彦はため息をついた。
「お前もそろそろだろう?」
「実は、きょう届いたんだ。どうしたらいいか相談したくて……」
「悪いことは言わん、その時計を処分して天晴ウォッチにしろ。これ、すごいぞ。何から何まで申し分ない。これをタダでくれるんだからな」
「ただより高いものはないっていうじゃないか」
夏彦はビールのジョッキをテーブルにドンと置いた。
「夏彦、お前、まさか現金使ってないんじゃないだろうな」
「たまには使うさ。現金も必要だからな」
「マジかよ。財布を持ち歩いてるのか?」
うなずく夏彦に、野島は「おいおい」と呆れ顔を見せた。
「悪いことは言わん、天晴ウォッチにしろ。人生が変わるぜ」
「いや、キャッシュレスは個人情報がダダ漏れっていうじゃないか」
「知られて困ることがあるのか?」
「そういうことじゃなく、国に個人情報を握られるのが嫌なんだよ」
「個人情報なんてもう死語だ。全部オープンにしろ。世界はビッグデータで動いている。しかも天晴ウォッチは純国産だ。これをつければ十万円分のポイントがもらえる。ポイント目当てじゃなく、メイド・イン・ジャパンを復活させるために俺たちがつけるべきなんだ」
野島の熱弁に夏彦は少し心が傾いた。
「じゃ、問題は何もないんだな」
「ない。と言いたいが、一つだけある」
野島が文字盤を見せる。黄色いハートマークが脈打ち、その中に「19Y」の文字が見えた。
「天晴寿命だ。俺の命はあと十九年という表示だ」
「ちょっと待て、AIが寿命まで測定するのか?」
「いや、実際そうなんだ。三つ年上の先輩は、一日タバコを三箱吸うわ、大酒をくらうわ、豚骨ラーメンを汁まで飲み干すわ。そんな生活を続けていたら、天晴寿命を使い切って、表示が『30D』に。つまり残り三十日さ。で、一か月後に心不全で死んだ」
夏彦のビールジョッキを持つ手が止まった。
「冗談じゃない、天晴ウォッチに寿命まで決められるかよ」
「まあ、健全な生活を送れば、天晴ポイントは貯まる。歩けば二百ポイント、三キロ走れば六百ポイント、マラソンなら三千ポイント。貯めれば寿命が少しずつ伸びる」
野島はノンアルコールビールを飲み干し、トマトジュースを注文した。
「病気や事故で死ぬこともあるだろ」
「今はがんも交通事故もない。不摂生しなければ八十まで生きられる」
「でも八十であの世か」
「……それは俺にもわからん。ポイント貯めて八十三くらいでポックリ死ねたら最高だな」
「国は国民を家畜同然の扱いだな」
「家畜? どうかしてるぞ」
「国の方針に逆らう者がいない国家って恐ろしいと思わんか」
「いや、思わん。この国で生きるには、この国に従うしかない」
「それが家畜だって、わからんのかよ」
夏彦は声を荒げた。
「お前、酔ったのか? 声がデカいぞ。天晴ウォッチ批判すると目をつけられるからな」
「悪口も言えないのかッ、あぁ気分が悪い、帰るよ」
夏彦は席を蹴ってレジに向かうと、若い店員がマニュアル通りに告げた。
「六十歳以上のお客様ですと、天晴ポイントがお得です」
「なぜ俺が六十だとわかる」
「レジに立つと顔認証で年齢確認ができます。このレジは国が認証したもので、個人データの流出はありません」
「それこそ個人情報の流出だろ」
暗記したような店員の返答に夏彦は苛立った。
「現金でもいいんだろ」
「現金ですと手数料をいただきますが、それでもよろしければ……。お支払いの五十%を追加させていただきます」
「おいおい、いつからそんなことに」
「六十歳以上の方には天晴メールが届いているはずです」
「そんなもん知るか。なんでもかんでも天晴、天晴と、うるさいんだよッ」
揉める二人の間に野島が割って入った。
「おい夏彦、みっともないぞ。ここは俺が天晴ポイントで払うから、今度おごれよ。天晴ウォッチをはめたら十万ポイントもらえるからな」
2
天晴ウォッチの装着〆切まで、あと三日となった。気持ちを整理するため、夏彦は旅に出ようと思い立ち、妻を誘ってみた。
「急に何よ。私が忙しいこと、わかってるでしょう」
思った通りの反応に夏彦は苦笑いした。実は一人の方が気楽だった。何度か二人で旅行したが、必ず些細なことで口げんかとなった。バカな繰り返しは避けるべきだ。デイパックを背負い、趣味で始めたトレイルランニング用のシューズをはいた。この靴なら長距離の移動も山登りもこなせる。かつてはロードバイクに乗っていたが、自転車まで免許制になり自転車税がかかるようになったため、ロードバイクを処分してトレイルランニングに転向したのだった。
「あしたか、あさって帰るよ」
靴の紐を結び終えて玄関から声をかけたが、沙耶香の返事はなかった。マンションから川越駅に直結するコンコースの壁面はデジタル広告になっている。
『行こうよ秩父へ、ぶらぶら秩父。』
そのキャッチコピーが夏彦の心を引き寄せた。秩父名物のホルモン焼き、わらじカツ丼、豚みそ丼が次々と映し出される。好きなビールと一緒に食べたら、どれほど美味しいだろう。山あいの温泉に浸かり、市内をぶらつくのもいい。秩父は、どこか時間が止まったように思えた。
川越から秩父へは東武鉄道でも西武鉄道でも行ける。西武は三年前から低コスト方式の「リニアメトロ」を導入していた。地下を走り、踏切もなく騒音もない最新システムだが、夏彦はあえて東武を選んだ。車窓の景色を眺めながら、電車の揺れを楽しみたい気分だった。寄居駅で乗り換え、秩父へ向かうと、次第に電車は山の中へ走る。荒川に架かる鉄橋を渡ると、眼下には岩肌を剥き出しにした長瀞渓谷が見えた。紅葉は落葉の季節へと移り変わっていた。車内アナウンスが到着時刻を告げる。終着駅・三峰口まで四十分だという。
「終着駅か……」夏彦はつぶやいた。その先には線路がない。俺の人生は、いま、どのあたりだろうか。旅は小さな冒険の連続だと思う。途中下車も冒険だし、人に道を尋ねるのも、食堂に入るのも冒険だ。終着駅の先に何があるのか、予定を変更して三峰口まで行くことにした。
三峰口駅は瓦屋根の木造駅舎だった。朝食を摂らずに家を出たので、腹が減って仕方がなかった。コンビニでも探すかと見渡したが、見当たらない。駅前をぶらぶらすると、古い食堂を見つけた。入口に暖簾が下がっている。かつて映画で見た光景を思い出す。どうやら古民家をリフォームしたらしい。メニューは蕎麦、うどん、カレー、カツ丼と幅広い。こだわりのない店だった。肌寒いので「鍋焼ききつねうどん」を注文した。メニューの裏に瓶ビールを見つけ、夏彦は唾を飲み込んで追加注文する。冷えた大瓶が運ばれ、グラスになみなみと注ぐと泡が溢れそうになり、慌てて口に運んだ。
「旅行ですか」
横のテーブルの男が声をかけてきた。自分と同じくらいの年ごろで、小太りの柔和な顔をしている。
「ええ、まあ」
「私は三峯神社に行こうと思ったんですが、ここからバスで五十分もかかるんですよ」男は少し呆れたように言った。
「たぶんバスの中は満席でしょうね」
「本当は山に登るつもりで準備してきたんです」
男は真新しい登山ウエアを着ていた。靴もリュックも帽子も新品だ。夏彦は心の中で「初心者だな」と思った。リュックはパンパンに膨らんでいる。湯気を立ててうどんが運ばれてきた。男も鍋焼ききつねうどんを注文していた。
「私、お揚げが好きでね」
男は目を細め、熱々のうどんをすすり、出汁の染み込んだお揚げを頬張った。
「私もビールを頼めばよかったなぁ」
「どうぞ、僕のビールを」
夏彦は店のおばさんにグラスをもらい、ビールを注ぐ。男は喉を鳴らして一気に飲み干した。
「うまい、生き返るな」
大袈裟だなと夏彦は微笑んだ。
「お酒、好きなんですか」
「大好きです」
男は泡がついた上唇を手で拭った。
「このところ酒を控えていたから余計にしみますね」
小太りの体型を見て、夏彦は血糖値か尿酸値が高いのだろうと思った。しばらく雑談した後、男は「ここは私が」と席を立った。
「それはいけませんよ」
夏彦が財布を出すと男は長袖をめくり上げ、「ポイントがあるので」と天晴ウォッチを見せた。(この男もか)と夏彦は酔いが一気に醒めた。懐古趣味の雰囲気ある食堂だったが、レジには「現金不可」の紙が貼られていた。
「これからどちらへ?」男が聞いた。
「決めていません。あちこちぶらぶらして宿を探すつもりです」
「私はあす両神山に登ろうと思うのですが、ご予定がなければ一緒にいかがですか」
夏彦の心が動いた。これも小さな冒険だと思った。
「今夜の宿は?」
「両神山の登山口にある山荘を予約しています。そこで泊まり、翌朝出発すれば昼に登頂、夕方には三峰口に戻ってホルモン焼を食べようと思っています」
「それはいいなぁ」
夏彦の心をくすぐった。
「実は仲間と登る予定だったのですが、今朝になって都合が悪くなったと連絡が入りましてね。一人でも宿は心配ありません。でも無理ですよね」
「いえ、何の予定もなかったのでぜひお供させてください」
夏彦は頭を下げた。
「それはよかった。一人だと心細かったんです」
三峰口駅のバス停から町営バスに乗り、終点・日向大谷へ向かう。山荘はそこにあるという。バスが来るまで、四十分ほどベンチで待つことになった。
「天晴ウォッチをされていないということは、まだ還暦前ですか」
男が聞いた。
「いえ、先日六十になったばかりです」
「なぜ天晴をしないのです?」
「三日後が期限ですが、迷っているんです」
「私も一瞬迷いましたが、仕方ないのでつけてみました」
「で、どうでした?」
夏彦はチラッと男の目を見た。
「素晴らしいの一言です。携帯もいらないし、財布もいらないし、身分証明書も何もかもいらない。天晴をしていれば、困ることは一切ないんです」
「みんな同じ意見ですね」
夏彦はがっかりしたように目を逸らした。
「でもね……ただならぬ噂があるんですよ」
「ただならぬ、噂?」
「一度はめたら二度と外せないことは知ってますよね」
「ええ、そのことが僕は納得いかないんです」
「天晴寿命があることはご存知ですか」
「ええ、それも友人に聞きました。天晴ウォッチをはめると、長生きしても八十歳までらしい、と……。不摂生な生活をしていると、どんどん寿命が短くなって、電気ショックでコロッと逝くと……嘘か本当かは知りませんが」
「ああ、そこまでご存知なんですね。だったら話が早い」
「話が早い?」
夏彦が聞き返した。
「あ、お年寄りが来ちゃいましたね。席を譲りましょうか。話の続きは、宿に着いてからゆっくりしませんか?」
ベンチを譲った三人の老人の腕にも、天晴ウォッチがはめられていた。
3
男は坂田と名乗った。金融関係の仕事をしていたが、六十歳でリタイアし、現在は六十二歳だという。以前は六十五歳まで嘱託で働けたが、AIの進歩でホワイトカラーの労働力は不要となった。年金額は以前より引き上げられ、贅沢をしなければ普通の暮らしができるという。
「僕は瀬川と言います」
「瀬川さんですね。下のお名前は?」
「夏彦です」
「ほう、夏休みの夏ですか。私は優(まさる)と言います。お仕事は?」
「僕もリタイアしました」
夏彦は出版社に勤めていたことを話した。雑誌も書籍も電子化され、紙の本が完全に消えることが決まったのを機に、六十歳を前に辞表を出した。
「仕事を辞めたら好きなことができると思ったんですが、なかなか見つからなくて」
「同感です。私も暇を持て余しています」
「何もかも便利になっていくのが嫌で、天晴ウォッチをはめるかどうかも、少し抵抗しているんです」
「抵抗? 久しぶりに抵抗なんて聞きましたよ。今や抵抗する人なんていません。大人も子どもも時世に流されるまま。会社にも学校にも行かなくてもいい時代です。パワハラもいじめもない。受験も入社試験もない。みんな自由に生きられる。これって、いい時代だと思いますか?」
坂田に問われ、夏彦は少し考えてから答えた。
「いいとは思いませんね。物足りない」
「そう、物足りないんです。ノンストレスの時代なんて、生きてる実感がない。馬鹿みたいに酒を飲み、二日酔いでゲロを吐いて、『もう酒なんかやめてやるぞ』と言いながら、翌日また酒を飲む。それが私なんです。そんな人間がいてもいいと思うんですが、この世には不要なんです。無駄な人間。ゴミ以下です」
「そんなこと、ないですよ。僕も酒は好きですし」
夏彦が慰めるように言った。
「さっきのビール、久しぶりに美味いと感じました。で、天晴寿命の話です、実は私の寿命、残りわずかなんです。ほら」
坂田が天晴ウォッチの画面を見せた。黄色いハートマークの中に「1D」と表示されていた。
「アイディ?」
「違います、ワンディですよ」
坂田が弱々しく笑った。
「え? ということは残り一日じゃないですか」
バスがエンジンを唸らせ、くねくねとした坂を登っていく。
「あと一日で、私はこの世からおさらばです」
「まだ六十二歳でしょう?」
「この二年、好き放題に生きてきたツケが、1Dとなったわけです。不要な人間は去れ、ということでしょう」
坂田が顔を歪めて笑った。
「馬鹿げてる。そんなことがあっちゃいけない。抗議したんですか?」
「無駄でした。どこも相手にしてくれません」
「諦めちゃいけませんよ。なんとかできるはずです。でも、なぜあと一日というのに山登りを?」
「実はあなたに頼みたいことがあるんです」
坂田の細い目が鈍く光った。
バスは三十分ほど走ると、山荘がある終点・日向大谷に着いた。二人は早めにチェックインし、岩風呂につかり、浴衣に着替え、早めの夕食となった。
「夏彦さん、あなたは天晴をつけないでほしい。抵抗し続けてください」
「そのつもりです」
「つもりじゃなくて、覚悟を持ってほしい」
「覚悟?」坂田の強い口調に、夏彦は戸惑った。
「この天晴は六十歳以上の国民の九十九%が腕にはめています。腕にはめると天晴寿命が二十年と設定され、八十歳になった年に突然あの世へ行くことに設定されています。あの世に行くことをエンドと言います。八十歳を過ぎても生きる人もいますが、せいぜい八十五歳まで。そのうち安楽死に至るようです。二十年後、高齢者はほぼいなくなる。ただし政治家や一部の特権階級、高級国民は寿命を延ばせる特別仕様の天晴ウォッチがあるそうです。だから八十歳になってもエンドにならない」
坂田は焼酎をグイッと喉に流し込んだ。
「やつらのやりそうなことだ」
夏彦が舌打ちをした。国の企みが見えてきた。
「そんな極秘情報を、初めて会った私に話してくれたのはなぜですか?」
「天晴を迷っている夏彦さんに、私のように後悔してほしくなかったんです。私の命はあと一日。明日の正午でエンドでしょう」
坂田がため息と共に三杯目の濃い酒を喉に流し込んだ。
「天晴ウォッチを切断したらどうですか? どうにかすれば切れるはずです」
夏彦の提案に坂田の目が輝いた。
「そう思いますか? 最初は自分で切断しようとしたんですが、ベルトは特殊合金で無理でした。そこであなたの力を借りたい」
坂田は登山リュックから折り畳み式のメタルカッターを取り出した。さらに電気シェーバーほどのディスクグラインダーも用意していた。
「なぜ両神山へ?」
「ゼロ磁場を知っていますか」
坂田の説明によれば、断層の上にごくまれに発生する現象で、重なった地層が相反する方向に押し合うと磁場がゼロになる。目には見えないが、両神山山頂付近がそのゼロ磁場で、天晴ウォッチの異常信号がコントロールセンターに送られず、高圧電流で即ショック死する恐れもないという。
4
翌朝、二人が宿を出たのは日の出前の六時だった。山荘の左手から登山道が続いていた。鳥居をくぐると細い山道が現れ、次第にアップダウンが激しくなる。小さな沢をいくつも渡り、落葉樹の中に入ると急な山道に変わった。昨夜の酒が残っていて息が上がる。足が重く、どこかで休みたい。振り返ると、坂田が遅れ始めていた。岩がゴロゴロ転がる先に、「弘法之井戸」の看板が見えた。井戸というより湧水のようだ。坂田が手ですくって水を飲むと、二日酔いの体に冷たい水が染み渡った。
「ああ、水がうまい、生きてるって感じだ」
秩父の山あいに朝日が昇り、周囲が白々としてきた。
「これから本番ですよ。きつい坂が始まりますけど、大丈夫ですか?」
「山頂まであと何時間ですか?」
「二時間は見たほうがいいですね」
「まだまだですね」
坂田がリュックからゼロ磁場検出器を取り出した。周辺を測っても針はまったく反応しない。落ち葉を踏みしめて登ると、避難小屋が見えてきた。ここで十五分ほど休憩をとった。
両神山の山頂付近にはいくつも鎖場があり、一人ずつ登るため登山者で渋滞が発生する。時間を食ってしまったものの、どうにか山頂に辿り着くと、時計は十一時半を過ぎていた。山頂からは奥秩父の主峰、八ヶ岳、浅間山、北アルプスの稜線を望める。その稜線から朝日を受けた真っ白な富士山が頭を覗かせている。だが、そんな素晴らしいパノラマを眺める余裕など、二人にはなかった。首都圏から日帰りで登れる百名山とあって、狭い山頂は登山客で溢れていた。ゼロ磁場検出器で山頂付近を測ると、針がクルクルと激しく回り始めた。
「やはり、山頂はかなり強いゼロ磁場ですね」
しかし、人の目があるため山頂では作業できない。通報される恐れがあるのだ。深夜に宿を出るべきだったと悔やんだが、もう遅い。山頂から少し下ったところに脇道があり、そこなら人目を気にせず作業に取り掛かれる。
「時間がありません。さあ、腕を出してください」
夏彦が言葉に力を込めた。
差し出した坂田の手首と天晴ウォッチの間にはほとんど隙間がなかった。そこにメタルカッターの刃をねじ込むと、坂田の顔が歪む。夏彦はグリップに力を込めて絞り上げたが想像以上の硬さだ。メタルカッターは、大きな剪定バサミに似ていて、一方のグリップを地面に押し当て、もう一方に体重を乗せて、切断しようとしたが、びくともしない。
「だめだ。急いでディスクグラインダーに切り替えましょう」
バッテリー式のディスクグラインダーをメタルカッターにセットし、スイッチを入れるとキーンと回転音が鳴り響いた。周囲のことなど気にしていられない。時間がないのだ。メタルカッターで切り込んだ箇所にいくらか凹みができた。そこにディスクグラインダーの回転刃を当てると、火花が飛び散った。
「手加減せずに続けてください」
坂田が歯を食いしばる。断熱シートを手首に巻いていたが、熱さは伝わってくる。額から流れた汗が顎の先から滴り落ちた。そのとき、「ブチッ」と鈍い音を立ててベルトが千切れた。地面に落ちた天晴ウォッチは、死にかけの蝉のようなアラームを発した。ゼロ磁場の範囲から少し外れていたのだ。坂田はそれをつかみ、富士山へ向かって投げつける。天晴ウォッチは悲鳴をあげるように谷底へ落ちていった。
「いま、何時です?」汗びっしょりの坂田が聞く。
「ジャスト十二時です」
「これで自由だッ」
坂田はその場にへたり込んだ。
「いや、警報アラームが鳴ったということはバレているんじゃないですか?」
「そうか、すぐに下山しないと……」
異常を感知した天晴ウォッチの管理センターは、最寄りの秩父警察署に通報するだろう。そこからスカイポリスが一時間足らずで上空まで飛んでくるはずだ。スカイポリスとは有人のドローンで、いわゆる空飛ぶ白バイだ。下山した二人を追って三峰口駅や秩父駅に配備した捜査官と挟み撃ちにする可能性もあった。不安が膨れ上がった。
「いまから下山すれば三時十分のバスに間に合います」
夏彦が坂田を急かした。
三時間半かかった登山だったが、下山には一時間半しかかからなかった。自由になれた喜びで、坂田の足取りも軽い。停車場にはすでにバスが到着しており、空いていた一番後ろのシートに疲れた体を沈めると、すぐに睡魔が襲った。
山に囲まれた秩父の夕暮れは早い。車窓が夕焼けに染まるころ、三峰口に着いた。長い旅をしたような気分だった。
「これからどうです、飲みに行きませんか。祝杯をあげに」
坂田の誘いに夏彦は戸惑った。まだ気が抜けないと思った。
「坂田さん、いまさらですが、天晴ウォッチがなくなって、どう生きていくつもりですか?」その問いに坂田の顔が一瞬曇った。
「私も同じことを考えていましたが、今日までの命だったので、これからは明日のことなど考えず、今を生きます」
「今を?」
「ええ、今はとにかく祝杯をあげたい。確かこの近くにホルモン屋があったはず。現金払いもできる店でね、そこで軽くどうですか」
天晴ウォッチの切断に加担した夏彦は、坂田の今後が気になった。自分も明日までに天晴ウォッチ装着の〆切が迫っていた。拒否した場合、どう生きるのか。坂田の言う通り、今を生きるしかなかった。
ホルモン屋は雑木林の中にある木造平屋で、看板も出ていない。店は土間にテーブルが四つ、奥に座敷があり、ガスコンロで焼くスタイルだ。坂田は迷わず、生モツ、豚味噌ロース、極上豚タンと注文した。店主に「日本酒、常温で」と告げる。空きっ腹に酒が染み込み、白い煙を上げる生モツを箸でつまみタレに浸し口に運ぶ。下処理がしっかりしており、臭みはない。プリプリの食感で噛むほど旨い。辛口日本酒とホルモンの脂の甘みが絶妙だ。腹が満たされるまで二人は黙々と食べた。
「ところで坂田さんはこれからどうするつもりですか?」
夏彦が箸を置く。
「逃げるしかないですね。逃亡犯ってやつですか」
坂田は力なく笑った。
「駅や繁華街は監視カメラで特定される。近づかない方がいい。でも田舎だと逆に目立つ」
「生きづらい世の中ですね」
天晴ウォッチから自由になった坂田に、あすからの生き方は見えなかった。
「過ぎた日を悔やまず、明日を心配せず、今日をひたすら生きる。それしかないんです。今日は本当に面白かった。まるで映画みたい。主役は夏彦さん、脇役は私。ちょっと色気がないな」
坂田は酔いも回って楽しそうに笑った。
「天晴ウォッチが谷底に落ちるのは愉快だったな。ざまぁみろって感じ」
夏彦も気を許して笑った。
ホルモンをつつき、コップ酒を飲み、幸せな時間は止まることなく過ぎていく。壁の時計を見ると夜の十時を指していた。
「ご主人、お愛想。それとタクシーを呼んでください、秩父駅まで」
「あいよ」
勘定は思いのほか安かった。
「ここは僕が……」
夏彦はお札(さつ)を店主に渡し「お釣りは結構です」と手のひらを向けた。
「この時間だと三十分で来るかな。ゆっくりしていきな、酒はサービスするから」
店主は奥へ電話をかけに行った。タクシーを待つ間、酒をちびちび飲んでいると、すりガラスがヘッドライトで光った。意外と早くタクシーが来たようだ。
「ご馳走様……ご主人、また来ます」
だが、店主の姿は見えない。
「おじさん、帰りますよ」
返答がない。嫌な予感がした夏彦は、ドアを少し開けて外を覗く。
「しまったッ」
三台のスカイポリスが空中に浮いていた。
「あのジジイ、タレ込みやがったな。坂田さん、裏口から逃げてください。僕がおとりになります。急いで」
「すまない、夏彦さん。いつかまた、どこかで」
坂田はそう言い残し、裏口から闇に消えた。
しばらくすると、店の中に黒い制服のスカイポリス三人が現れた。
「坂田かッ」
「私じゃない。そんな人は知らない」
夏彦が顔認証カメラで身元を調べられる。
「瀬川夏彦、六十歳、現住所SKG八八〇七。天晴ウォッチをはめていない理由は?」
「黙秘する」
「おい、法律改正で黙秘権はなくなったぞ」
「知るかッ」
背中に回ったスカイポリスが夏彦をはがいじめにした。
「何をするんだッ」もがくも無駄、腕に手錠がはめられる。
「なんで手錠を?」
「よく見ろ」
スカイポリスが嘲笑した。
左腕にはめられたのは、天晴ウォッチだった。
文字盤に『あなたに天晴人生』のメッセージと、黄色いハートマークに『10Y』が点滅している。夏彦の残った命は十年だった。
「逃げた坂田だが、あいつは殺人犯なんだよ。上司と妻を殺して逃げていたんだ。その逃亡を手助けしたお前も重罪だ。ということで天晴寿命は『10Y』だ」
「なにが天晴寿命だ。オレの生き死にをなんで国に管理されなきゃならないんだ」
夏彦が唸った。
「抵抗すると命が縮むぞ」そんな忠告など耳に入らない。夏彦は腕の天晴ウォッチのベルトに人差し指、中指、薬指をねじ込み、力の限り引きちぎろうとした。
「バカッ、そんなことで千切れるわけがないだろうが」
それでもやめない。三本の指から爪が剥がれ、血が滴った。
「やめろ、やめるんだッ」
暴れる夏彦の腹をスカイポリスが殴る。こみ上げる胃液とともに夏彦は食べたばかりのホルモンをぶちまけた。スカイポリスの顔にねっとりとした嘔吐物が飛び散った。
「公務執行妨害ッ。直ちに天晴寿命が縮むからな」
夏彦は顔を歪めて叫んだ。
「ふざけんなッ、こんな管理された社会なんて、ぶっ壊してやるッ」
※
「あ、しまった……! 登場人物がほとんど男だから、第二話で魅力的なヒロインを入れないと……」
第二話では夏彦が移送中に隙を見て逃亡する。秩父で出会う女性をパルチザンの一人に。第三話で坂田と再会し仲間を集める。第四話では政府系企業に忍び込み、天晴ウォッチを管理するスーパーコンピュータを破壊する――。
筋立てを思い描きながら、沙耶香はパソコンから視線を外した。
そのとき、玄関で夏彦の声がした。
「あしたか、あさって帰るよ」
「ねえ、ちょっと待って!」
あわてて廊下に飛び出すが、そこには夏彦の姿はなかった。
(了)
AIの怖さと便利さ存分に
日高博(ひだか・ひろし)さん(66)坂戸市
宮崎県出身で、さいたま市で育った。学生時代は勉強、なかでも国語が苦手だったという。それだけに「作家」への憧れは強く、社会人になってから小説教室に通い、地道に創作を続けてきた。
今回の受賞に「前期高齢者として第2の人生をスタートさせたところに届いた吉報。これからの人生の弾みになる」と顔をほころばせる。
受賞作「天晴(あっぱれ)ウォッチ」は、ミドルシニアが主人公の冒険小説。60歳以上の国民が、腕時計型の管理システム「Appale Watch(天晴ウォッチ)」の装着を義務付けられた近未来の日本が舞台。現金も運転免許証も不要で、ポイントもつく便利な機器だが、装着すれば最大でも80歳までしか生きられないという噂がある。還暦を迎えた夏彦は抵抗するため秩父への旅に出る…。スマホやAIの便利さと怖さを軽快な筆致で描く。
ほとんど現金を使わないデジタル派で、「(物語で)主人公に天晴ウォッチを勧める友人側の人間です」と笑う。情報機器を使いこなす日々だが「『あと〇歩歩け』などの指示通りに動いたり、自分はスマホに支配されていると思った」。ふと抱いた疑問が、着想のきっかけになった。
主人公は大好きなキャラクター。「僕は調子のいい人間だけど、夏彦は損得を気にせず意思を貫く。負けない人間を描きたかった」と話す。
ラジオ番組の台本を手がけるフリーライターとして、「10人聞いたら10人が分かる原稿」を目指してきた。小説でもその信条を生かし「誰もが楽しく読める、面白い小説を書きたい」。
詩部門正賞
光の痕
野沢舞花(23)=(のざわ・まいか)=東松山市
尻の間の下の方、大臀筋のあたりにあるらしい/小さいころからそこに傷があ
る/しかし自分のこの目で見たことがない/どんな形になっても見えない/見
えない、ということがひどく私を不安にさせる/夜になると疼く/熱を持って
私を悩ませる/まるで体の中で発火しているよう/私を内部から照らす傷/私
の皮膚は透ける/電気ケーブルのような青白い管が全身に伸びている/夜に滔
滔と灯る光が傷と私の関係を強める/そこにあること、その存在をわすれさせ
ないように深く刻み込まれる
生まれる言葉を大切に
野沢舞花さん(23)
立教大大学院現代心理学研究科に在籍し、新座市のキャンパスで現代演劇の演出を中心にさまざまな表現を追求する。大学から演劇を学び始め、戯曲やプロットを書く中で日々感じたことや考えたことを書き留めることが習慣になった。「排外主義が叫ばれるなど世界的に不安定な社会の中で、他者の意見に流されず、自分の中で生まれるものに目を向けていきたい」と話す。
幼少期から本に囲まれ、言葉に親しみながら育った。小学生の頃、詩が好きな祖母の影響で金子みすゞの詩集をどこに行くにも持ち歩き、キャンプに行った時も星空を見ながら詩集を読んでいたという。高校時代は新聞部に所属し、趣味の映画をテーマにしたコラムを担当。「自分の考えや感じたことを人に伝える喜びを発見できた」と振り返る。
受賞作「光の痕」は、目には見えないが確かに存在する「傷」をテーマにした作品。「光というと希望のようなプラスのイメージが強いけれど、原子爆弾の破壊的な光や、X線のように痕跡が残る光もある」。そんな「トラウマ的な光」と傷を重ね合わせ、読者の感覚にじわりと訴えかける。「素晴らしい賞をいただいて光栄。自分の言葉を尽くしたものが、誰かの胸に届いたことがとてもうれしい」と受賞を喜んだ。
日ごろから、身体や皮膚感覚から生まれる言葉を大切にしているという。「自分の中で『言葉で語る』ということが大切で、一番信頼できる要素。演劇も語ることがとても重要なのでこれからも続けていきたい」と力を込めた。
俳句部門正賞
朝(あした)になれば
浅野都(82)=あさの・みやこ・筆名=川口市
洗眼し色なき風を待ちゐたる
曼殊沙華競ふつもりはないけれど
きほひとか無理は禁じ手水の澄む
秋澄むや崇きは深し逆さ富士
天からか誰ぞの声が竜淵に
歯に衣は着せない天が高いから
隠り世に序列あるらし流れ星
流星の風切羽を持ちゐたる
掌は無限を掴む星今宵
草の露おおつぶこつぶ只ならず
歪んでも濁りはしない露の玉
白秋のとりわけ好きな香を聞く
風爽やか露座の仏と横並び
課すことで己高めむ爽気満つ
いっこうに縮まらぬ距離穴惑ひ
予てより憶ふことがら長き夜
一時の安らぎである霜の花
丹頂の一級モデルウオークかな
初雪の均してをりぬ山の襞
遊歴を阻むことなし冬花火
自然体で気負わず
浅野都さん(82)
約10年前、72歳のときから埼玉文学賞への挑戦を始めて、応募した最初の年、2015年に準賞。それからほぼ毎年応募し、佳作が2回、2020年にも準賞を受けた。準賞になった年は授賞式に参加し、多くの人から「次はぜひ正賞を!」と激励された。そして、11回目の応募でついに正賞を射止めた。
開口一番、「私、気負いはないんですよ。こういう趣味のことに対しては、自然体でありたいと思っています」と告げるが、「皆さんからの励ましを受けて、ここでくじけたら意気地なしだなとも思いました」とつぶやく。この間、月5回は結社の句会に出席し句作に励んできた。その上で、10年間の応募継続をしてきた。
「10年前と、わたし自身は本質的に変わっていませんが、ゆっくり進んでまいりました。年月や成長は感じていただけるのではないかと思っています。応募に関しては、20句のうち1句でも良くないものがあってはいけないし、平凡であってもいけないと学びました」。
受賞作は、朝と書いて「あした」と読ませる「朝になれば」。明日になればきっと、つらいことや問題も解決するよ、と希望を表すようなものにしたかったと言う。露や星、霜、雪などを詠んだ句に、晩秋の夜明けの爽やかさを感じたと感想を伝えると、瞳を輝かせた。「句会の若い方々に『早く正賞を取って、私たちのために席を空けてください』って言われてました。ようやく…ですね」と喜びをにじませた。
短歌部門準賞
君がさいたま
小野愛加(21)=おの・まなか=横浜市
「ごめん」から始まった今日まめの木がまめにも木にも見えず遅れて
ポケットに手を突っこんだまま会釈さいたま県民あるあるとする
どこからを恋と呼ぶのでしょうか 冬 まだ彼氏ではない君と行く
ハンバーグの赤いスパイス噛み潰す 君としばらく目が合ってない
不器用でぶっきらぼうでしゃべる猫はいると言っても信じるタイプ
門、けやき、鳥居見上げてばかりいて氷川神社で空と近づく
大吉を引き当てた君 私にも吉ぶんくらい分けてください
「好き」は君を縛ることばと思いつつ君の影のなか結ぶ靴ひも
絵馬の木の匂いかすかに優しくて神さまのことを信じてしまう
「字ぃ汚い」「うるさい」四字で会話するだけで心の海満ちていく
暖をとるためだけに入る資料館きみと秘密を共有してる
さいたまはなんもないよと笑うけど君がいるから君がさいたま
まだぬくい鈴カステラをくれるひと「あなた埼玉はじめてでしょ」と
両唇を合わせるだけでいい今のあなたをまなかにして(いつか)呼んで
越谷の「が」は接続の「の」の意らしい 君がさいたま瞳に映す
新都心の夜を映した君の目に光が宿る ふいに目が合う
今日ずっと冬の空気にさらされた肺胞とけるような「好きです」
しんしんと脈打つ冷えた手のふたつ気温10℃のなかでつながる
「あなたの手、焼き鳥みたい」ふにふにと歌人も思いつかない比喩で
これまでの鼓動を振り返るように三十五駅、各駅停車
埼玉を舞台に恋を描く
小野愛加さん(21)
「さいたまはなんもないよと笑うけど君がいるから君がさいたま」―。埼玉を舞台に、きらめく二十歳(はたち)の恋を詠んだ。「若造が取れる賞じゃない、と驚いた。20首作るという大きな挑戦だったけど、若さや真っすぐな思いを認めてもらって本当にうれしい」と瞳を輝かせる。
明治大文学部の3年生。受賞作「君がさいたま」は、現在交際中で、埼玉県民の恋人から告白された「思い出の一日」を時間経過とともにつづった。武蔵一宮氷川神社に初詣に来た2人。大宮駅での待ち合わせから始まり、少しずつ距離が近づく様子が、みずみずしい言葉で描かれる。
神奈川県立光陵高校(横浜市)文芸部で短歌に出合う。高校時代から歴史ある短歌結社「ポトナム」に所属し、年配者と一緒に歌を詠んだ。「短歌を勉強したい」と同大文学部に入学し、「毎日が楽しくて仕方ない」と話す。
魅力度ランキングで埼玉県が最下位になったニュースに驚いたと言い、「彼が住んでいて、私が告白されて、私の文学を認めてくれたのが埼玉。いいイメージしかありません」と話した。
戦のなかを
築根喜美江(92)=(つくね・きみえ)=上尾市
無造作に引かれし線に沿ひて建つわが家は強制疎開の対象
お台場に積まるる廃材山なして強制疎開の破壊は続く
今もなほ耳に残るは家毀す兵らの掛け声「一二の三よ」
竹針の先切り直しレコードを聴きしは灯火管制の夜
「松原の防空壕に避難せよ」最後となりし祖父の言葉よ
妹の手を引く祖父の姿をば見失なひにき炎の中に
トタン板が真赤に焼けて宙を舞ふ濡らしし頭布は既に乾きぬ
睫毛まで灼けて面輪の変りたる妹に問ふ「美代子なの?」と
火に追はれ水漬く壕へと逃れしか手首に残るゴム編部分
家跡に祖父と妹を葬りたり拾ひし茶碗に水なみなみと
白骨(しらほね)を素手で二つの箱に分く小さいお骨大きいお骨
焼野なる千住をリヤカーで通るとき頭上はるかにB29飛ぶ
弟は生後五カ月泣く口に薄き重湯をスプーンで運ぶ
火だるまになりて助けを呼ぶ叫び幾度聴きたる母のひと世か
空爆に子らを失ひ泣く母を女女しと思ふ教育受けぬ
病む妹へ給食のパン残せるを非国民と罵りし教師
役所より受けし食券握りしめ父と並びし雑炊食堂
家庭科の授業に使ふ針と糸 新橋駅前闇市に買ふ
食を欲り寄りくる上野の浮浪児にまぎれをらんや亡き妹の
自分史に初めて明かしき妹たちをわが手に火葬せしこと
空襲の記憶を鮮明に
築根喜美江さん(92)
東京都大田区の大森で生まれ育った。1945年4月15日、12歳の時に大規模な空襲に遭い、妹2人と祖父を亡くした。受賞作「戦のなかを」は、火の海となった大森の町を一家で避難した体験や、戦中戦後の生活など、戦争と家族の記憶をつづった20首だ。
長年、戦争体験を語ってこなかったというが、戦後80年という節目の年に自身の体験を歌に紡いだ。「あの日のことは今でも鮮明に覚えている。川崎方面の空が真っ赤になり昼間のように明るかった」。築根さんと一緒に避難した母、当時3歳の妹と生後5カ月の弟は命からがら助かったが、途中ではぐれた祖父と9歳だった妹の遺体が翌日見つかった。7歳だったその下の妹も全身にやけどを負い、5日後に亡くなった。
「白骨を素手で二つの箱に分く小さいお骨大きいお骨」は、祖父と9歳の妹のことを詠んだ作品。2人の遺体は空襲で焼けた自宅の材木で火葬し、骨つぼ代わりに手作りの箱に骨を拾った。「戦争の体験を作品にまとめることができてよかった。戦争は絶対にやってはいけない」と話していた。
佳作
小説部門
チャアチャン
一條絵里沙(39)=東京都練馬区
詩部門
ワイシャツ
島田奈都子(60)=久喜市・筆名
記憶の戸
水野栄子(82)=羽生市
聖母残像
あんのくるみ(39)=さいたま市南区・筆名
俳句部門
口一文字
高木宇大(70)=川口市・筆名
独吟
野々上淳(83)=蓮田市・筆名
麒麟
吉田孝子(57)=さいたま市西区
短歌部門
教員三年目
馬場清歌(24)=さいたま市浦和区
海の夕映え
山下恵子(73)=白岡市
二十歳、所感
田代宗伸(20)=さいたま市桜区
おまじない
野中葵(17)=加須市