埼玉新聞

 

志を継ぐ「富士登山」 登山家、田部井淳子さんが2012年に開始 東北被災地の高校生が参加

  • 2012年の富士山登山。右端が田部井淳子さん、左端が進也さん(田部井淳子基金提供)

    2012年の富士山登山。右端が田部井淳子さん、左端が進也さん(田部井淳子基金提供)

  • 田部井進也さん(田部井淳子基金提供)

    田部井進也さん(田部井淳子基金提供)

  • 日和田山の登山口近くに立つ田部井淳子さんの記念モニュメント=9月、日高市高麗本郷

    日和田山の登山口近くに立つ田部井淳子さんの記念モニュメント=9月、日高市高麗本郷

  • 2012年の富士山登山。右端が田部井淳子さん、左端が進也さん(田部井淳子基金提供)
  • 田部井進也さん(田部井淳子基金提供)
  • 日和田山の登山口近くに立つ田部井淳子さんの記念モニュメント=9月、日高市高麗本郷

 川越市に住み2016年に77歳で死去した登山家の田部井淳子さんが、世界最高峰エベレスト(8848メートル)の登頂に女性で初めて成功して50年。田部井さんの長男進也さん(47)は、母の志を継ぎ「東北の高校生の富士山登山」でプロジェクトリーダーを務めてきた。東日本大震災の被災地の高校生が参加する活動で、これまでに累計854人が登頂を果たしている。進也さんは「高校生は登山に挑戦した経験を経て、次の世代を担う人材になる」と話す。

 プロジェクトは田部井さんが、震災の翌年の12年、東北を支える勇気や元気を養ってほしいとスタートさせた。多くの高校生に参加してもらうため、参加費3千円で実施。進也さんは当初からプロジェクトに携わってきた。

 16年に田部井さんが他界。富士山の登山もやめるのではないか―。そんな声を聞き進也さんが抱いたのが、「反骨精神」だった。17年に基金を設立して組織化。夏に毎年1回の登山を続け、参加者の裾野を広げてきた。

 進也さんは言う。「彼ら(高校生の参加者)は震災を乗り越えてきている。コロナ禍もあり、制限の中で歯を食いしばって青春を過ごしてきた」

 ある年には、こんなことがあった。雨が降る9・5合目で登れなくなった高校生がいた。体力的なことを考慮し、本人には山を下りることを告げた。下山を前に力をつけるため、行動食を取っていると空が晴れた。「どうする?」と改めて登頂への意思を聞いたところ、うなずいた。「頑張れ」。頂上から他の高校生が呼びかけた。10メートル歩いて休み、また10メートル進む。やがて頂上に到達した。

 「チームとして頂上を目指す。高校時代の貴重な時間だ」と進也さん。登頂した高校生の多くは「己との闘いに勝ったことで泣いてしまう」という。

 プロジェクトの初期の頃は、高校生には「深い所に傷がある」と感じた。親が津波に流されてしまったと話す参加者もいた。「今の高校生は、震災の記憶は薄いかもしれないが、誰かに支えてもらってここまで来ているという感覚の子どもたちが多いように思う」

 今年の夏も多くの高校生が参加した。10人余りのグループに分かれ、前日から山小屋に宿泊し、夜中に出発。高度に体を慣らすなどし、ガイドやスタッフ、医師らと共に、ゆっくりと14時間余りの行程で歩いた。

 富士登山が心身に与える影響について明らかにするため、筑波大学との共同研究も実施している。進也さんは「富士山登頂という大きなチャレンジを果たした達成感で、高校生には精神的な成長を感じる」と話した。

■日和田山でトレーニング

 世界の高峰に挑む一方で、日高市の日和田山(305メートル)でもトレーニングを積んだ田部井淳子さん。晩年にはリハビリのために訪れていたという。登山口近くには「日和田山からエベレストへの道有志の会」による、田部井さんの記念モニュメントも立つ。

 長男の進也さんは日和田山について「標高が低い山のわりに、岩があったり針葉樹の中を抜けていく所があったりする。身近に起伏を楽しめる自然の場所だ」と説く。

 1975年のエベレスト登頂から半世紀。「家ではご飯も作る普通の母親だった」と振り返る進也さん。「ただ、登山時の物や服装は現代とは、はるかに違う。今では登山靴も軽量化されている。よく登ったなと思う」と語る。

■田部井淳子(たべい・じゅんこ)

 福島県三春町出身、昭和女子大卒。1969年に「女子登攀クラブ」を設立。翌70年にアンナプルナⅢ峰(7555メートル)の登頂に成功。72年から川越市に住み、75年エベレストに登頂した。88年に埼玉県民栄誉章、川越市民栄誉章。92年には女性で世界初の7大陸最高峰登頂を果たした。95年に内閣総理大臣賞を受賞。2016年10月20日死去。

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