乳児背負い、長女抱いて必死に逃げた母…旧ソ連軍の侵攻で暮らしが一変 母が語った樺太での苦難の体験を小説に 埼玉・上尾の山口さん 96歳で亡くなるまで息子に樺太のことを話し続けた母
終戦直前の1945年8月11日、当時日本領だった樺太(サハリン)は、日ソ中立条約を一方的に破棄した旧ソ連軍に侵攻された。樺太生まれで当時生後6カ月の山口靖史さん(80)=上尾市=ら家族の暮らしは一変した。樺太と北海道を隔てる宗谷海峡を渡る船はなく、旧ソ連に占領された樺太に残留せざるを得なかった。小説サークル代表の山口さんは、母親が語った苦難の樺太体験を「閉ざされた宗谷海峡」という題名で小説にした。作品は2020年の第51回埼玉文芸賞(県、県教育委員会主催)で準賞を受賞。山口さんは「母親の体験を引き継いで樺太での苦難を書き残せた。母親との合作」と語る。
▼事実をそのままに
樺太は、北海道の最北端の宗谷岬の北に位置する。日露戦争のポーツマス講和条約で、日本はロシア領だった南樺太を領有。パルプ業や炭鉱、水産業が盛んな土地で、人口は40万人といわれた。
「母親が体験した事実をそのまま書いた」と山口さんが振り返る母親の清子さんは山形県出身。太平洋戦争中の42年に樺太で教師をしていた同郷の文雄さんと結婚し、樺太に渡るところから小説は始まる。
長女と山口さんが生まれ、家族4人で樺太の中心地、豊原市で暮らしていた。旧ソ連軍の侵攻で豊原は空襲を受けた。清子さんも銭湯の帰りに空襲に遭い、山口さんを背負い、長女を抱きかかえて必死に逃げた。住民はソ連兵を恐れ、女性は性暴力におびえた。
清子さんも、文雄さんが留守中にソ連兵に自宅に侵入されそうになった。一方で生活のためや長女を医者に診せるため、街でソ連兵に着物を売った。「家族4人で引き揚げることを願い、必死だったのでしょう」と山口さんは当時を思い巡らす。このような生活が2年続き、47年に北海道に引き揚げることができて小説は終わる。一家は北海道の網走に落ち着き、山口さんは高校卒業後、東京都職員となった。
▼ソ連兵士の娘との写真
晩年、故郷の山形県に移った清子さんは70代の頃から96歳で亡くなるまで、山口さんが訪ねるたびに、樺太のことを話すようになった。文雄さんは何も語らず83歳で亡くなった。「母は短歌を作っていた。同じ文芸をやる者として、樺太のことを書き残すよう息子に託したのでは」と真意を測る。
清子さんは樺太時代の写真を大切に保管していた。写真は山口さんと姉、ロシア人の少女が一緒に写っている。少女は自宅2階に同居していた旧ソ連軍医夫妻の娘。軍医の妻は温厚な女性で、清子さんは仲良くなり料理を教わったり、一緒に銭湯に行った。「樺太の生活は苦しいだけではなかったことが子どもとしては、ほっとした」と話す。
▼民間交流は絶えさせない
山口さんは長年、NPO法人日露交流文化協会代表として民間交流を推進してきた。決して暗い影ばかりではなかった旧ソ連兵たちと家族との交流は、現代のロシアのウクライナ侵攻について、国と国だけではない異なる見方をもたらしている。
「ウクライナ侵攻は樺太侵攻と重なり、当然批判はする。が、民間交流は途絶えさせない」。決意の背景にあるのは人と人となら良い関係が築けるという希望だ。










