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2019年度 彩の国・埼玉りそな銀行

埼玉文学賞

2019.11.11

「彩の国・埼玉りそな銀行 第50回埼玉文学賞」の受賞作品が決定しました。「小説部門」「詩部門」「短歌部門」「俳句部門」の各正賞、準賞を紹介します。

埼玉文学賞とは

埼玉新聞社創刊25周年を記念して1970年に制定した「埼玉文学賞」は文学を志す人たちを長年にわたり支援してきました。今年で50回。毎年幅広い年代から作品を集め、県内外から注目される文学コンクールです。小説、詩、短歌、俳句の4部門。埼玉りそな銀行から特別協賛をいただいております。

第50回埼玉文学賞審査員

小説部門

  • 高橋千劔破
  • 新津きよみ
  • 三田完

詩部門

  • 木坂涼
  • 北畑光男
  • 中原道夫

短歌部門

  • 沖ななも
  • 金子貞雄
  • 杜澤光一郎

俳句部門

  • 鎌倉佐弓
  • 佐怒賀直美
  • 山ア十生
Placeholder image審査風景から
小説部門正賞

ツクモの家

霜月ミツカ

 新品の白いジャケットから、いろんな食べ物やアルコール、煙草の匂いがする。表面上は白く見えるけれど、染みついたにおいはもう取れない気がした。バスの窓にもたれ掛かった。こんな汚い窓に頭をくっつけたくなるくらい、物理的に冷やして冷静になりたかった。
 会社は、わたしにとって働いて賃金を得るための場所にしか過ぎないから他人のプライベートになど興味はない。無論、自分のプライベートにも踏み込んで欲しくない。
 きょう言われたことが体の中を渦巻くけれど忘れよう、忘れようと己に言い聞かせた。
 こんな風にわたしが「劣等感」みたいなものを持ってしまうと、それこそ主人に失礼だと自分に言い聞かせる。わたしたちは十分に幸せだし、他人がどう思おうと放っておけばいい。そうこうしているうちに自宅の最寄の停留所を告げるアナウンスが流れ、ボタンを押した。
 バスを降りて、五分ほど歩くと集合住宅街があって、そこからちょっとだけ距離を置いて離れ小島のようになっている一軒家が我が家だ。古民家を改装した二階建ての住居で、二人で住むにはあまりにも広すぎるが、結婚して二年で主人がローンを組んで購入した。外装はレンガ造りになっていて非常に丈夫そう。庭はだだっ広いのにあまり草木を置いておらず、創作途中のテーブルや椅子などが置いてあって一見ただのガラクタ置き場だ。
 所沢に家を買ったのは、できるだけいろんなものを家に置きたいからだという。また、彼は東京があまり好きじゃない。そしてよくモノを拾う。不法投棄された家具や、用途のわからないものを分解し、再利用したりインテリアにしたりする。
 きょうみたいにこころが荒んでいるときは、家から灯りが漏れているだけで涙が出そうになる。そして、門の前に金庫のようなものが置いてあった。近所でうちは「ガラクタポスト」と呼ばれているらしい。わたしたちの耳に入っているので、もはや陰口ではない。むしゃくしゃしているので蹴飛ばそうとしたが「すべてのものにはこころがあるから」という彼の口癖を思い出して、やめた。
 リビングに入ると主人がソファの下に眠っていた。
 わたしはその姿を見て、鞄を落としてしまった。
 ひとつだけ大きくいつもと違った。主人はいつも殺人現場のようにうつ伏せでソファの下に眠ることが多いのだが、きょうは仰向けで、主人の腹の上には謎の赤ん坊がぐっすり眠っていた。
 主人を起こそうにも信じられないくらいの熟睡具合で、おまけに下手に起こしてこの赤ん坊が起きてしまっては可哀相。謎の赤ん坊に対し、可哀相という感情が沸いているのが我ながら不思議だったが、冷静になるためにリビングを出た。
 何も見なかったことにして、二階の寝室に入り、ジャケットをハンガーにかけ、消臭スプレーをかけた。それから念入りに化粧を落とした。風呂を洗うのが面倒だったからシャワーをし、ベッドに入った。主人を起こすことなく。
 眠りの淵でうつらうつらしていたところ、下のリビングから赤ん坊の泣き声が聞こえた。体がいままでにないくらい強張った。しばらくすると泣き声は小さくなり、やがて聞こえなくなった。
「誰の子なの」
 ベッドから降りて、リビングに入った。主人はソファに座り、絵画の聖母のように穏やかな瞳で赤ん坊をあやしていた。
「おかえり。もうパジャマなんだ?」
 主人は、わたあめのように芯のないしゃべり方をする。
「トールさん爆睡してたから」
 わたしがそう言うと、気に留めず赤ん坊を揺らしていた。
「その子、どうしたの」
 冷静に冷静にと自分に言い聞かせた。
「家の前に居た」
 まるでヤモリかなんかが居たかのようなテンションだったのでわたしも「そうですか」と言ってしまった。
「これからどうするの」
「どうしたらいいんだろ」
「警察じゃない?」
「警察かー」
 わかってるくせにとこころの中で責めつつも、主人の温かい瞳を見ていると背筋が凍るとともに、そんな彼に愛しさが芽生えてしまうのでこの二律背反が気持ち悪かった。
「ちょっとだけ、うちで預かってみない?」
 主人はあどけない顔でわたしにそう言った。
 きょうの飲み会のことを話したかったのにそれどころではなくなってしまった。この赤ん坊問題に向き合うのはあす以降にしたい。
「ごめん、きょうは何も考えられない」
「そうだよね。お仕事お疲れ様。この子のことはきょうは気にしなくていいよ。俺が精一杯面倒見るから」
 きょうは、ということはつまり、あす以降はお前も向き合えということだ。
「寝る。おやすみ」
「うん。おやすみね」
 主人はいつもと何も変わらない顔でそう言った。
 ベッドに入り、目を閉じるが、眠れるはずがない。
 ある日、主人がこう言ったことがある。「こんなにいろんなひとがいろんなものを置いていくんだから、この噂がコウノトリのところまで届いて、俺とエミの子どもを置いて行ってくれればいいのに」と。わたしはそのお伽噺を笑ってきいていたし、そうなれば幸せだと思った。実際、望み通りにはなったが、運んできたのはコウノトリではなく、見ず知らずの人間だ。受け入れていいはずがない
 翌日、疲労の塊を持ったまま会社に行くと莉恵ちゃんが近寄ってきて「おはようございます。きのうは無理に誘ってしまい、すみませんでした」と非常に申し訳なさそうな顔をして言われたが、飲み会のことなどすでにわたしの頭の中から通過しきっていた。
「いいのいいの。気にしないで」
 精一杯つくり笑いをした。
 デスクに座り、メールを確認すると、きのう取引先に送ったチラシの一稿に大量に入っているアカを見て疲れが倍増した。念入りに打ち合わせたつもりでも気持ちが合致することなんてほぼほぼない。会社に来る前にコンビニで栄養ドリンクを買わなかったことを後悔した。いつもは小さなトゲのように感じることも、きょうのわたしには太い釘になって、こころに刺さっていく。
 昼時になって上の階の食堂に向かった。わたしが勤めているのは小さい会社だけど、同じビルに入っている別の会社と共同で使える食堂がある。
「笑美さん」
 莉恵ちゃんがわたしを見て手を振った。先に来て四人掛けの席を取っていてくれた。
 疲れているくせに食欲はまったくなかったが、気合を入れるためにかつ丼を注文した。テーブルに戻ると上のフロアのハンドメイド用品の通信販売会社に勤めている佐藤さんも座っていた。
 全員が揃ったので食べ始めた。一口食べてかつ丼を注文したことをすぐに後悔した。
「今月号のATENAに笑美さんの旦那さんの記事載ってましたね。びっくりしちゃった」
 佐藤さんはすごく嬉しそうに笑っていた。ATENAとは十代後半から二十代前半をターゲットにした女性ファッション誌だ。
「あ、そうなんだ」
 主人はわたしの知らないところでいろんな雑誌に載っている。たまに自宅(兼仕事場)に取材のひとも来る。
 主人はwebや広告のデザイナーだ。わたしも同じ業種といえばそうだけど、わざわざ所沢から東京に出てもっとしょぼいことをしている。「俺の仕事手伝ってよ」とたまに言われるけれど、彼が作り出すものや彼への評価を見るたび、自分とは別次元のひとだと思って断って会社にしがみついていた。
「かっこいいですよね」
 佐藤さんがそう言うと、莉恵ちゃんも食い気味で共感してくれた。
「元女性だなんて、信じられないです」
 佐藤さんはまったく悪気なく笑った。その瞬間、莉恵ちゃんの表情が硬直したことに気がついた。
「生まれつき男性ホルモン強めだったんだと思うよ」
 わたしは、めちゃくちゃ適当な嘘をついた。
「あ、そうなんですね」
「うん。結構毛深いし」
 実際、トールさんはそんなに毛深くない。
「え、あの顔で?」
 莉恵ちゃんはわたしの嘘を本気にしてしまった。
「うん。やばいよ」
 そう言うと莉恵ちゃんもまじかーと笑ってくれた。
「笑美さんすごいです」
 佐藤さんがそう言ったとき、やな予感がして、覚悟を決めた。
「え? 何が?」
「元女性と結婚するなんて」
 また莉恵ちゃんの表情が固まった。
「顔がめちゃくちゃ好きだからね」
 わたしはその場を、そんなつまらない冗談で返すことしかできなくて、佐藤さんは「かっこいいですよね」と言ったけれど、すぐに莉恵ちゃんがこの間街コンで知り合った男性の話をはじめた。
 きのうも、だいたいこんな感じだった。莉恵ちゃんは何も悪くないのに申し訳なさそうな顔をするので逆に申し訳なかった。
「夜はどうしてるんですか」「子ども欲しくないんですか」
 わたしは主人のことを何の引け目もなくいろんなひとに話していた。こうやって聞いてくるひとに、きっと本気で悪意があるわけじゃないことはわかっている。そんなに深い意味もないのに苛立ったり、劣等感を抱いたりしてしまう。きのうがそんな日だったから、本当にコウノトリが赤ん坊を運んできたのかもしれない。そんなバカげたことをつい考えてしまった。
 食事を終えて職場に戻って直し途中のチラシに向き直る。
 何かに没頭していないとバランスを崩してしまいそう。
 きょうは家に帰りたくないなと思いながら、わたしはきちんと帰路についていた。バスの窓の外に広がる田園風景は、朝はあんなに優しいのに夜は闇に溶けていて少し怖いと思う。
きょうは門の前に何も置いていなかった。リビングに入るとキッチンからシチューのにおいが漂っていた。哺乳瓶と粉ミルクが置いてあったが、見て見ぬふりをした。
「エミおかえり」
「ただいま。あの赤ちゃんは?」
「エトーね」
「エトー?」
「エミとトールの子どもだから」
 わたしは一旦無視してまともに取り合わなかった。
「いまは二階で寝てる。リビングは明るくて睡眠に向いてないからね」
「大丈夫なの?」
「こまめに見に行ってるし、泣いたら聞こえる」
「あれくらいの子って生後何か月くらいなのかな」
「さあね。二、三ヶ月じゃない?」
 友人に子どもがいるひとが居ないから、お互い赤ちゃんに対する知識はだいぶ薄かった。
「赤の他人の子なのによく面倒みられるね」
 いまのはことばにとげがあったかもしれない。
「人間の本能ってヤツかもしれない」
 シチューを丁寧によそいながら笑った。嘘だ、とこころの中で呟いた。
 流木とタンスと拾ってきた椅子でつくられたダイニングテーブルに座り、サラダとシチューとパンをもくもくと食べた。
 上目で見ると主人はいつもと一切変わった様子はない。「嬉しい」も「悲しい」も感じ取れない。くらげみたいにふわふわしているのからいつも感情が読めない。怒っているところも泣いているところも見たことがない。
「おむつ買ったの?」
「もちろん」
「おむつ替えしたの?」
「うん。最近は調べればいろんなひとがいろんな情報を落としていてくれるからね」
「そう」
 犬や猫が捨てられていることもあったが、必ず里親を探して引き取ってもらっていた。人間の子どもとなるとそうはいかない。
 いまこうして、あの子どもを保護していることも絶対いいことではない。
「実に立派なものがついていて羨ましいよ」
 なんて言ったらいいのかわからず、聞き流した。
 食事を終えてテレビを見ていると二階から泣き声が聞こえた。主人が当然のように二階に上がったのでついていった。
 客間には布団が敷かれ、赤ちゃん用の枕の上にタオルが敷かれしっかりと首が固定されていた。傍らには清潔感はあるものの、少し古びた熊のぬいぐるみとガラガラが置いてあった。きょうは仕事をせずに赤ん坊に夢中だったのだろうとため息をついた。
 顔を真っ赤にして泣く赤ん坊をうるさいとは思わなかった。空気をめいっぱい揺らし、何かを訴えている。主人は育児の経験なんてまったくないのに慣れたようすで子どもをあやしていた。才能があるのかもしれないし、ほんとうに「人間としての本能」でそうしているのかもしれない。自分の心が乾いているのを感じた。わたしには母性なんてものが存在しないのか、赤の他人の子どもだからからその赤ん坊を可愛いとは全然思えなかった。
 赤ん坊が寂しがったらかわいそうだと主人が言うので客間に布団を敷き、赤ん坊を真ん中にして、三人で眠ることにした。いつものベッドじゃないから寝付けないのというのと、単純に隣に赤ん坊がいるという緊張感があった。
 こんな状況でも主人はぐっすり眠っていた。瞼には太い二重線があって、この下に幾重にも細い線が描かれている。この瞼が好きだった。
 わたしたちはあまり子どもについて話しあってこなかった。トランスジェンダーでもいろんな手段で子どもを授かるひとたちはいる。精子提供を受けての人工授精や特別養子縁組が主だ。以前、「俺の子ども産んでよ」と冗談で言われたことがある。わたしは笑った。彼も笑っていた。妄想の中だったら幸せだったのに、いざ、自分は、いや、世界のほかの女になったところで、純粋に彼と自分だけの子どもが生まれるなんてことはないのだけど、彼の子どもを宿すことができないという事実は女として辛いものがある。もし、自分が産んだ子だったら、自分の時間をすべて費やしてでも大切にする自信がある。
 特に何かが辛いわけではないのに涙が出て止まらなくなってしまった。
 目が醒めると隣に主人も赤ん坊も居なかった。
 太陽が彼らを抱きしめるように窓から光を放っていた。美しかった。
 彼のことが好きなら、彼の望み通りにこの子どもを一緒に育てるべきなのか。でも、やはりそれは異常なことに思えた。
「トールさん。その子を警察に届けよう」
 日が経つことに愛着が沸いてしまう。だから、これ以上一緒に過ごしてはいけない。
「わかってるよ」
「わかってないよ」
 彼がその子どもにこだわるのは、“わたしたちの間に子どもができないから”というのが理由でないことにきちんと気づいていた。
「その子に、自分を見てるんじゃないの」
 言いたくないことをついに口にしてしまった。
「そうだと思う」
 きっと主人ならそう言うとわかっていた。一度吐いたことばは元には戻らないのに、罪悪感で胃が溶けそう。
「子どもを捨てるひとの気持ちが俺にはわからないから」
「そんなの、わたしにだってわからないよ」
 彼は感情のないビー玉のような目でわたしを映して、口の端を上げて笑った。またこれだ。「どうせわからないだろう」とことばで言われたことはない。だけど態度で示されるのだ。出会ったときから感じてきたこと。わたしと彼の間にこの「わからない」という壁はずっと存在している。
「その子と暮らすというのなら、わたしはこの家を出るよ」
 冗談ではないし、彼の気持ちを試すつもりもなかった。
 空気が一瞬で固まった。彼は口を噤んでしまった。こんなこと言いたくなかった。
「行くな」とも「好きにしろ」とも言わない。
 それから口をきかず、職場に向かった。
 わたしにとっては、性別なんて大した問題じゃない。彼だってきっとそう思っているはずだ。だけど人間として生きる時間を重ねていくと、結婚とか子孫とかそういうことが話題にあがる。
彼を初めて両親に会わせた日、最初嬉しそうな顔をしていたのにほんとうのことを言ったら青ざめ、失望一色になったあの顔。受け入れてくれてはいるが、今でも認めてはいないのを知っている。
 業務をそつなくこなし、ちゃんと笑って過ごせた。わたしはJR新宿駅に向かって、中央線に乗って中野で降りた。ここにはわたしの実家がある。インターホンを鳴らし、飛び出してきた母は、どうしたの? とも言わず「お帰りなさい」と言った。

 最初は一目惚れだった。
 主人はわたしにとって「突然現れたひと」だった。大学三年生になるまで見たことがなかったのにある日、ほんとうにある日、突然変異のように図書館に現れるようになった。初めて見たとき、こんなに綺麗な男がこの世に存在するのか、誰かの妄想が具現化してしまったのではないかと、驚き、自分の体の中の細胞すべてが震えた。白いサマーニットからのぞく鎖骨、首のライン、大判の本を抱える細くて長くて美しい指。虚ろなまなざしさえ彼の美しさを彩っていた。わたしは声をかけることなどできず、いつも遠目から彼を見ていた。
 大学には野良猫が何匹も生息していた。友人が学校に来ていないとき、わたしは外のベンチで食事をとることにしていた。単に猫に触りたかったからだ。あの日もベンチでサンドイッチを食べて猫を待っていた。三毛猫が走ってきて、その後ろを彼が笑顔で追っていた。その光景がにわかには信じられなかった。猫はわたしの膝の上に飛び込んできて、すぐに丸くなった。
「ウソォ、俺にはそんな態度取らなかったじゃんか」
 彼は猫に対して恨み言を吐いた。
「きみ、懐かれてるんだね」
 そうやって微笑まれたとき、いままで体験したことのない早さで心臓が鳴った。
「いや、この子、人懐っこい子なので」
「えー、女の子のほうが好きなのかな?」
 彼はそう言いながらわたしの隣に自然と座った。花のようないい香りがした。
「きみはどこの学科? 何年生?」
「デザインの三年です」
「あ、同じだ。俺この前復学したの。一瀬透。よろしくね」
「わたしは佃笑美です」
「笑美ちゃん」
 そうやって彼がわたしの名を呼んで微笑んだとき、王子様みたいだと思ったら、体温が一気にあがった。夢と現実の判断がすぐにつかないから、これはわたしの妄想なのかもしれない。
「俺と一緒に入学したやつは、もうほとんどいないんだ。仲良くしてくれると嬉しい」
「こちらこそ」
 最初から彼は気さくなひとだった。わたしたちはすぐに仲良くなったけれど、彼の周りにはいつもひとがいた。男友だちはもちろん、可愛い女の子とも親しくしていた。それまでわたしは男のひとに興味がなかった。誰かに恋愛感情を抱くのも、そのひとの周りにいる女の子にヤキモチを妬くのもはじめてのことだった。
わたしがベンチに座っていると猫だけでなく彼も寄ってくるようになった。そのときだけは独り占めできてるみたいで嬉しかった。
「トールさんは、彼女いるの?」
「え」
 たぶん出会って五回目くらいで単刀直入に訊いた。自分でも切り出し方が下手だと思ったが、友だちになりたいわけじゃない。恋人になってほしかった。
「いないよ」
 彼はゆっくり瞼を閉じた。長い睫毛が陰をつくった。
「そうなんだ」
「俺、FtMなんだよね」
「え、えふてぃー?」
「FtM。Female to male。生まれたときは女だった」
「え?」
「隠すことじゃないから言うけど」
 彼はどう見ても男だった。声も仕草も。肩幅だって広い。ただ、男性にしては少し首が細いかもしれない。でも、生まれたときは女だったと言われてもにわかに信じられない。テレビでトランスジェンダーという単語をきいたことはあるけれど、わたしの周りにはいなかった。
「好きです」
「え?」
「わたしはトールさんが好き」
「マジで? いいの? 俺、まだ全部男になってないけど」
「うん、うん。全然関係ない」
 そう言うしか、そのときわたしにはできなかった。
「だって、わたしトールさんのこと奇跡の存在だって思うもん」
 わたしは男のひとを好きだと感じたことがあまりなかったから、彼に「FtMだ」と告白されてもあまり、抵抗がなかったのかもしれない。
 彼が元女性であることはすぐに学校中に知られることになった。彼がまったく隠す様子がなかったので変な噂が流れることもなかった。学校にはゲイもレズビアンもいたし、芸術系の大学だったからか、偏見や差別されることなく、むしろひとつの個性として尊重されていたようにと思う。
 「透」という名前は自分でつけたと言っていた。「元々は色彩の彩でアヤという名前だった。だけど俺はずっと透明になりたかった」と彼は言った。
 その名の通り、彼は水のようにさらさらとしていて、純粋で嘘がないひとだった。
 付き合って一週間くらいですぐに彼の実家に連れて行ってもらった。浦和にある一軒家で、戸棚やテーブルはアンティーク調だった。ご両親はまったく彼に似ていなかったけれどおふたりともこの世の幸せを詰め込んだような顔をしていた。彼のことを一人息子として扱い、わたしのことを何度も「透にはもったいないくらいの子」と何度も褒めてくれた。
 お母様手作りのアップルパイの味は未だに忘れられず、バターの風味が良く、煮リンゴは甘いながらも優しい味がした。
 帰りに駅まで送ってくれるときに唇からこぼすように「俺はね、元々施設に居たんだ」と言った。正直、性別のこと訊いたときより驚いてしまった。
「小二のとき、いまの親に引き取られたんだ。自分のことは物心ついたときから男なんだと思っていた。でもずっと言えなかった」
 口笛を吹くような顔で話をつづけた。
「両親にカムアウトしたのは高校生のときだよ。そしたら父が笑ったんだ。娘を育てていたつもりが、この子は男なんじゃないかって思うことが何度もあったんだって」
 さきほどのお父さんの恵比須顔が浮かんできた。
「母の方が戸惑ってたよ。でも、最終的にね、うちには一人しか子どもがいないのに女も男も両方育てることができて得したって言われた」
 彼があのご両親に愛されてきたことが嬉しくて涙が出そうだった。たとえひとと違うところがあって、他人にとやかく言われても一番近い存在のひとがずっと彼を守っていてくれたことが嬉しかった。
 その後、彼と似たような境遇のひとがいるお店で働いていることを教えてくれたし、彼のアパートに何人もの過去の交際相手が訪れて、彼とやり直したいと言う姿を何度も見た。彼はわたしに隠しごとをすることは一切なかった。だからこそ、心底愛することができたし、わたしのほうから結婚を迫った。出会った頃にはすでに胸を取っていたし、男性ホルモンの投与はずっと続けているけれど、大学卒業前に彼はタイで子宮卵巣摘出術をし、戸籍を男性に変えた。それから二年後にコンビニに行く感覚で入籍した。わたしの両親は戸惑いながらもわたしと彼の結婚には反対はしなかった。ただ、一〇〇パーセント納得はしていないんだろうなと両親の表情から読み取っていた。
 わたしの両親に結婚の承諾を取りに行った日、主人が「ときどき胸が痛むんだ」と言った。風に紛れてしまいそうなほど小さな声だった。
「胸? 心臓? それとも表面?」
 わたしの胸の膨らみを「乳房」や「おっぱい」ということができるが、彼のその部分をいまとなってはなんと言ったらいいのかわからない。
「表面、ね」
 彼は声に笑いを含ませた。
「そう、表面。体が、元に戻ろうとするんだって。大体膨らみをとってもね、痛みは一年前後で引くんだ。だけど、たまに痛む。そのたび俺は思うんだよ」
 諦念に満ち、かつすべてを受け入れている目をした。
「俺は絶対男にはなれないんだって」
 口は笑っているのに、ちっとも楽しそうじゃない。
「ねぇ。全部が全部、男物になる必要があるの?」
 彼と一緒にいるとその疑問が募っていった。彼は何を今更と言って笑った。
「いまのままでも十分、トールさんは素敵なのに」
 体の中から不要な空気を排出するように彼は笑みを漏らした。
「素敵とかそうじゃないとかそういう話じゃなくてね、俺のこころは男物なのに体が一致していない。違和感があるから気持ち悪いんだよ」
 咎めるわけではなく優しく言ってくれたのに涙が出そうだった。わたしたちを襲うように冷たい風が吹いた。この先、どんなに愛しても、わたしは一生彼の気持ちがわからない。そんな気がして悲しかった。
「エミ。きみは、俺にはもったいないくらいに優しいね」
 わたしなんて独占欲の塊で、自分が優しいなんて正直思っていなかった。
「わたしが優しいのだとすれば、あなたのことが好きだからだよ」
 わたしの気持ちはあの日から変わっていない。彼というひとはいままでのすべてのできごとがあって構成されている。いまの彼を愛するということはこれまでのすべてを受け入れることだ。病気かと思えるくらい、彼のすべてが好きだった。いつも突拍子のないことを言ったりしたりするひとだけど、こんな風に彼のすることで悩んでしまったのは今回が初めてだった。

 中野の実家に帰ってから三日、主人から連絡はなかった。父の機嫌はずっとよかったけれど、両親は腫れものに触るように「透」という名も口にしないし、わたしの好物のオムライスや唐揚げをつくってくれた。家を出る前と団らんの空気は変わらないというのに自分に対し、異物感があった。
 夕飯時にテレビを点けると子どもが初めておつかいをする番組がやっていた。十分くらい流していたが、父がチャンネルを変えて野球中継になった。
 主人とあの赤ん坊のことを忘れるわけがなかった。
 わたしは正直、子どもの頃から「子どもが欲しい」とあまり思っていなかった。それよりも彼と一緒に居たかった。だから「子どもを諦めた」なんて自分のこころの中にはなかった。でも、両親は違ったのかもしれない。そして彼も父親になりたかったのかもしれない。確かにそうだ。トランスジェンダーだからといって子どもを授かることを諦めないといけないわけではない。
「孫、欲しい?」
 わかりやすく空気がはりつめた。
「そりゃあ、見られるもんならな」
 父は戸惑いながら母に同意を求めた。
 母は強い眼差しをわたしに向けていた。
「わたしは笑美の幸せが最優先だと思う」
 結婚して家を出た娘が突然帰ってくるにはそれなりの理由があるはずなのに、一度も聞いてこなかったけれどいろんなことを考えていてくれたのだろう。
「あなたが幸せで居てくれれば、わたしはそれで充分よ」
 口の中のカレーの辛さは一瞬にしてなくなった。目から汗のように涙がこぼれ、それから大泣きしてしまった。
 あの日、会社の飲み会で言われたこと、これまで自分たちに向けられてきたことばを一気に思い出し、一瞬にしてそれらが吹き飛んだ。
これ以上こじれる前に帰った方がいいと思ったけれど、彼がわたしではなくあの子どもを選ぶなら、それはそれで仕方ないのかもしれないとも思い始めた。
 翌日も実家から会社に向かい、ランチのときは合コン報告会が行われていたけれど、素知らぬ顔で、わたしは幸せだと見せつけるように笑った。佐藤さんと莉恵ちゃんの勘が良ければこの笑顔には深みがないことに気付かれていただろう。大丈夫だった。
 家に帰り食事の後に三人でお笑い番組を見ていた。こころの底から面白いと思っているわけではないのに、なぜ笑えるのだろう。外から不穏なエンジン音が聞こえた。わたしはその音に物凄く聞き覚えがあった。
 すぐにインターホンが鳴り、母が出た。動悸が異常に早くなった。母が玄関に向かう。
珍しく顔を強張らせた主人がリビングに入ってきた。スーツで、髪もきちんとセットしていて、胸を高鳴らせている場合じゃないのに、ときめいてしまった。
「お久しぶりです」
 そう言うと父はソファから立ち上がり、彼のことを一発殴り、彼がよろけた。温厚な父がまさかそんなことをするなんて予想だにしなかった。
「ちょっと、お父さん!」
 母が慌てふためきながら、父を止めに入った。
「ごめんなさいね、透くん」
 主人は床に手をつき、「申し訳ございませんでした」と言った。彼が土下座するところなんて初めて見た。
「透くん、顔を上げて」
「もう二度と、笑美さんに悲しい思いはさせません」
 彼は力強くそう言った。
「次、こういうことがあったら二度と笑美を渡さないからな」
 父はそう言い放ち、わたしを見て微笑んだ。
「行きなさい」
 そう言う父は、いつも通りの優しい父だった。
 彼の滞在時間は五分程度で、すぐに彼が学生時代から乗っているボロクーパーに同乗した。
「ごめん」
 助手席のチャイルドシートに赤ん坊が眠っていたので、わたしは後部座席に乗った。
 相変わらずこの車は乗り心地が悪い。
「迎えになんてこないと思っていた」
 彼は来るものは絶対拒まないし、去る者も絶対追わない。
「エミは俺の奥さんだから」
「でも三日も連絡くれなかった」
「それは」
 彼はことばを忘れたふりして続きを言わなかった。東京の夜は、埼玉の何倍もいろんな色の光で溢れていた。
「今の親に引き取られてからはずっと幸せだったけど、俺にとって施設はとても嫌な場所だったんだ」
 この話はきいたことがなかった。多分ずっと、彼のなかでふたをしておきたかったことだったのだろう。
「エミが嫌だと思うことはしたくない。でも、エトーに辛い思いもさせたくない」
 こんなに慈悲深いひとを悩ませてしまったことを反省した。
「俺は、あんまり重たいことばできみをしばりつけたくないんだけどね」
 信号が赤になって、バックミラー越しに目が合った。
「きみが居ること以上に価値のある人生なんてどこにもないんだよ。それだけはわかってくれるかな」
 主人は振り返って、ちゃんとわたしを見た。
「俺は、エミが大好きだ」
 彼はあまりはっきりとことばにしてくれないから、まさかそんなことを言われるなんて思いもしなかった。彼の目はいつも優しいのに、陰があった。わたしが愛することで光を灯したい。そう思っていたのに。後ろの車のクラクションの音で、彼は向きなおってアクセルを踏んだ。
「わたしのほうが好きだよ」
 自分の声が震えているのが分かった。
「出会ったときから、きょうまでずっと。トールさんが思う、何百倍、何億倍もトールさんのことが好きだよ」
 一番近くにいるわたしが、彼を守りたかった。周りのことばに屈している場合ではない、強くならないといけない。誰が何を言おうと、世界の悪意から彼を守りたかった。
「俺を選んでくれてありがとうね」
 彼の低い声が静かな夜によく似合う。
「わたしが選んだんじゃなくて、トールさんが愛させてくれてるんだよ」
 いまもこうして彼を愛せていることが嬉しい。
 一時間半弱でガラクタだらけの家に戻ってきてしまった。やはり落ち着く。わたしにとって我が家はここだった。
 車から降ろすとき赤ん坊は泣いてしまったけれど、主人があやすとすぐに泣き止んだ。
 少しだけ、この子どもを可愛いと思ってしまった。母性が芽生えたからではない。このひとがたくさんの愛を注ぐから、素敵に思えたのだった。 

 土曜日に赤ん坊を連れて入間のアウトレットとショッピングモールに行った。わたしは初めてちゃんと赤ん坊を抱いた。不思議なくらい人見知りをしないおとなしい子どもだった。たまに怪獣のように泣き叫ぶけれど、基本的には愛想のいい子どもだった。なぜこんないい子が置き去りにされたのだろう。
 ショッピングモールでは彼が赤ん坊を抱いて歩いた。彼は赤ちゃんの洋品店で服を二着とおもちゃを買った。これから先の未来はまったく描けないのに時間だけが刻々と過ぎて行く。実際このまま子どもの親が迎えに来なかったらどういう手続きを踏むのだろうと不毛なことを想像しながら、わたしたちの関係を説明するところまで妄想は膨らんだ。
 夕飯を買って帰り家につくと、家の前に白い乗用車が停まっていて、門の前に見知らぬ女性と高校生くらいの男の子が立っていた。
 彼らがどういうひとなのかすぐに察しがついた。
 赤ん坊を抱いている主人を見てふたりは頭を下げ、申し訳なさそうに顔を上げた。
 女性のほうが「初めまして」と言い、名乗ってくれた。この少年の母、つまりこの赤ん坊にとっての祖母だ。非常に品のある女性で、少年は主人よりも身長が高く、清潔感のある短髪で、賢そうな顔つきをしていた。
 少年も女性も「申し訳ございません」と何度も頭を下げた。
 主人は一切感情を昂らせることはなかった。
「迎えにきてくれてよかったです。迎えに来なかったら煮て食べちゃおうかと」
 思わずわき腹を殴った。なぜこんなときに冗談を言うのだろう。
「汚い家ですが、上がってください」
 わたしがそう言い、二人を招き入れた。
 大量の荷物は車に置き去りのままだった。
 彼らにダイニングテーブルに座ってもらい、麦茶とおかきを出した。
 主人が赤ん坊を少年に受け渡すと、赤ん坊が大声で泣いた。少年は怯えていた。
「こうするんだよ」
 主人は抱き方をジェスチャーし、しばらくあやすと赤ん坊は五分くらいでおとなしくなった。
「この子のお母さんは?」
「連絡が取れないんです」
 少年は暗い顔でそう言った。
「そっか」
 同い年の女の子を妊娠させてしまったこと、女の子の家族で育てる話だったが、急に押し付けられたこと、彼の母親は昨日まで赤ん坊の存在を知らなかったことなど教えてくれた。
「ぼくは生まれたとき女性でいまこうして男として生きている。それに捨て子なんだ」
 初対面のひとにその自己紹介はあまりにも剛速球すぎた。
 少年は涙で顔を濡らしていた。
「こうやって自分の子を持てるってことは当たり前のことじゃないんだよ」
 赤ん坊と過ごした日々、彼は何を思っていたのだろう。
「もう、寂しい思いをさせないでね。きみもそうだけど、ひとってひとりで生まれてきてないし、ひとりでは生きられないようになってるんだよ」
 主人の優しい口調でこぼれてくることばがわたしの胸の中にしんしんと落ちてきた。
 いままで彼は赤ん坊のために買い揃えたものをすべて女性の乗用車に載せた。きょう買った服も渡した。チャイルドシートだけはレンタルだったらしい。
 女性は何度も「申し訳ございませんでした」と謝罪した。「お金を払います」と言うのをきっぱりと断った。
 赤ん坊は少年に抱かれたまま車に乗り込むと大声で泣いた。
 車が走り出した瞬間、主人は見送らず家の中に入った。
「この後どうするんだろうね」
「さあな」
 珍しく、突き放すような物言いだった。
「ピザでも取る?」
 夕飯をつくるつもりでいたが、徒労感でやる気が起きなかった。
「食欲ゼロです」
 彼は乱暴に客人たちに出したコップを掴んだ。
「これ、渡し忘れちゃったな」
 キッチンに置き去りの粉ミルクと哺乳瓶を彼が摘み上げ、ゴミ箱に捨てた。
主人が二階に上がったので後をついていった。寝室に入り、ベッドに布団を敷いて横になった。わたしも横になったが、主人に背を向けられた。ふたりでこうしてベッドに入ったのはずいぶん久しぶりに思えた。
 彼は肩を震わせていた。泣いているのかもしれない。
「トールさん」
 わたしが呼びかけると涙目でこちらを見た。
「おいで」
 両手を広げると、彼はわたしの胸に飛び込んできて、声を上げて泣いた。赤ん坊よりも静かに、低い声で。
主人の少し固い髪の毛を撫でながら、幸せだと思った。こんなに愛しいひとがこの世界に存在していることを改めて嬉しく思った。その後久しぶりに体を重ねた。この行為で子どもをつくることはできないけれど、きょうならできそうな気がした。こんなことでも、このひとの涙を止めることができるならいい。あの赤ん坊が家の前に置かれることがなければ彼が大切にすることもなかったし、こんな風に喪失を味うこともなかった。憎しみを持つことも感謝をすることもないけれど、彼の中に「幸せ」が一瞬でもあったなら、悪くなかったのかな、なんて思う。

 あの日以来、彼はひとが変わったように毎日仕事に没頭した。普段から本気を出していればよかったものの、頑張りすぎているとそれはそれで心配になるのであまり頑張らないで欲しい。人間というのは難しいものだ。
 わたしが休みの日に雑誌の取材が来たので渋々応対をした。インタビュアーはわたしと同じ歳くらいの女性だった。
「素敵なお宅ですね」
 このガラクタだらけの家をなんだか詰られているような気がして必死で作り笑いをした。彼が取材を受けている間、庭の草むしりをしていると猫が遊びに来たのでしばらく構った。あの赤ん坊のことは、わたしの胸の中にもしっかりといた。
 インタビュアーが帰るのを確認し、家に帰ると主人はソファの上で急にぐーたらし出した。なぜ取材を受けるのか不思議だった。これも単なる気まぐれだろうか。
「きょうペルセウス流星群らしいよ。さっき来たひとが言ってた」
「そうなの?」
 彼は両手でスマートフォンを操作し「ピザ取ったから」と言った。嫌な気分になると大量にピザを頼む。それで何かを察した。
流星群が観測できるのは今夜の零時頃らしい。主人はベランダにマットを敷いて、大きいタオルケットを雑に置いた。見たことがない大きい枕も置いてあった。夕飯に食べきれなかったピザを皿に載せ、食べ始めた。
 わたしがタオルケットに包まると主人も入ってきた。
「星、好きだったの?」
 流星群に興味があるなんてきいたことがなかった。
「好きか嫌いかと言われれば好きかな」
 絶対好きじゃないのはわかった。
「あのさ」
  家の近所の街灯は弱々しい。だから、空が深い黒で、星が綺麗に見える。星を見ようと思って空を見たなんて何年ぶりだろう。
「エミは、自分がなんで生まれてきたんだろうって考えたことある?」
「そりゃあ、まぁ。中学生とか高校生のときとかは特に」
「俺はあんまりそういうこと考えないようにしてた」
「そうなんだ」
「意外?」
「別に」
 きっと暗い気持ちになるから考えたくない、彼はそういうひとだ。
「さっきの、インタビュアーのひとに訊かれたから。そのときは、考えたことないですって答えたんだけど、特殊な境遇なのにそういうこと考えないんですねなんて言われてしまって」
「え、ひどい」
「別にそれについては何にも感じなかったよ」
 触れたらさらりとしている彼の頬を見ていた。
「そのインタビュアーのひとにもうひとつ、きかれて、俺もエミに訊いてみたいことがある」
「何?」
「奥様は、子どもが欲しいって仰らないんですかって」
 又聞きでもゾッとするのに、それを言われ主人は一体どんな気持ちになったのか想像してもしきれない。
「なんて答えたの?」
「きいてないので知りませんって。教えてもらっても、いいでしょうか」
 あの日々、子どもについて深く語り合うことはなかったし、彼も訊いてこなかった。
「トールさんを好きだと思ったときから、わたしはトールさんとふたりでずっと生きていくんだと思ってた」
「諦めたの?」
「諦めた、というか」
「きみは、俺を好きになったときに、子孫を残すという選択肢を捨てた?」
「正直、そんなこと考えなかったわたしは、何かを捨てたんじゃなくて、トールさんと一緒に生きる人生を選んだ。トールさんがわたしの人生に居てくれたらいい。それだけよ」
 主人は薄笑みを浮かべた。
「そっか」
 夜空を仰いだ。もしかすると流星を見逃してしまったかもしれない。
「トールさんがひとりぼっちだとさみしいから、わたしが生まれて来たのよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「そうか。エミが俺の近くにいてくれるから面倒くさい仕事もやる気になって、面倒くさい仕事の向こう側のひとが幸せになってくれりしてくれるのか。俺が生きてる意味ってあるな」
「何それ」
 わたしは特に気に留めず笑った。
「世間に生産性がないと言われても、子孫を繁栄させること以外なら、俺にできることはあるなって思いたいから」
「あるよ」
 間髪入れず即答した。彼が笑ってくれたことが幸せだった。
その晩、わたしたちが見つけた流れ星はひとつだけだった。流星群と言えど大したことがないのか、それともお互いに夢中で流星群に気付けなかったのかもしれない。
「何かお願いした?」
 主人がマットを畳みながら訊いた。
「そんな余裕なかったよ」
「だよね。じゃあ今からしようよ」
「意味なくない?」
「星が見えないだけで流れてるかもしれないし、願いが届くかもしれないから」
 わたしは手を合わせながら願った。どんな悪意も彼に向けられませんように、たとえ向けられたとしても跳ね返せるくらいわたしを強くしてくださいと。
「何お願いした?」
「トールさんが長生きできますようにって」
「何それ」
 彼は目に光を灯らせて笑った。それを見て胸が温かくなった。
「トールさんは?」
「内緒」
「何よ、人に言わせといて」
「言ったら叶わなくなりそうで」
「じゃあトールさん長生きできないね」
「するよ。俺は。人生百年時代だからね」
 笑った顔が一番好きだ。これからも一番近くでこの顔を見ていたい。
「トールさん。わたし世界で一番幸せだよ」
「あ、そう? じゃあ、俺の願いもう叶ってたわ」
「え?」
 不意に唇を塞がれて、息ができなくなった。
 朝が来てまた日常にこころを乱されることがあっても、このひとがいる限り世界で一番幸せだと思える。いいことも悪いことも、ひとつひとつの積み重ねがいまの「彼」をつくった。これからはわたしの愛情で彼を包んで生きていく。どんなことがあっても、絶対に。

詩部門準賞

影−遠い記憶−

米田主美

友だちがお父さんの話をしている

友だちの輪に入れない私は
輪のまわりを
ぐるぐる回っているうちに
足元に
影が落ちた

校庭に
風がやってきて
落ち葉と遊んでいる

落ち葉は
伸びたり縮んだりして
まわりながら影をすくい取っては
彼方へ持っていく

いつしか
私も落ち葉になっていた

戦場に
父の影を追いかける
落ち葉に

渡ひろこ

成田空港到着ロビー
あなたは驚いたかもしれない
こんなに多くの出迎えがあるとは
遠くは金沢からも駆けつけた人がいる

ずっと待っていたんだよ
異国の地で留め置かれたあなたを
たくさんの想いが
今、ゲートに現れたあなたを包む

なだらかな輪になって
幾つもの手があなたに触れる
やさしく撫でる手
おおきな掌を置く手

それぞれが
懐かしい思い出を手繰る
あなたと結ばれた
見えないリボンが揺蕩う

お帰りなさい
こんなに慕われていたんだね
やっと会えたと
皆、温かい手を差しのべてくれる

「叔父さん、辞書みたいに小さくなっちゃって…。」

白い布に覆われ四角になったあなたを
ぽんぽんと軽くたたいた甥っ子は
片手でぎゅっとあなたを抱きしめ
顔をそむけて目頭を押さえた

※米国で荼毘に付された義弟に捧ぐ

短歌部門準賞

ペンペン草

神谷安久子

橋ふたつ渡り妹に会いに行く二月の日差しわずかに温し

仰臥する妹に顔を近づければしずかに息をつなぐ音する

妹の手はほんのりとあたたかし今日はゆっくり爪切りてやる

吸い飲みより水を少しく飲みし後わずかに頷き表情見せる

風に揺れ立葵赤く咲いている見舞いて帰る川のほとりに

遺されし赤い水玉の手提げ袋うら地こまかく繕いてある

本を読む事を楽しみし妹の戒名に「読」の文字きざまれる

妹の骨壺ふかく納めしときにわかに卒塔婆の触れる音する

頬に指を触れれば虚ろに我にむきし妹のまなこ忘れられなく

下腹のしくしく痛み俯きて夜中しばらく治まるを待つ

検査室の白いベッドの冷たくて不安な思いに身をかがめいる

画像には腸の粘膜のひとところ剥がれて歪に白くうつれる

温かき粥のひと匙かわきたる口にゆっくり含みゆく朝

マスク外し女医はやさしく「治ったら生きる喜び湧いて来ますよ」

体調を気に掛けながら歩きゆくハンカチの木に白い花咲く

何事も無かったように土手に座りペンペン草に触れたりもして

大丈夫、大丈夫と思い歩きゆく畝こんもりと並ぶネギ坊主

のぼる朝日を眺めていると身の裡にしずかに湧いてくるものがある

色褪せても紫陽花の花なお散らずもう一度自分に賭けてみよう

前向きに生きよとの思い噛みしめる自転車押して坂のぼるとき

こころの聴心記

根岸敬矩

「もの忘れ外来」に診る老(らう)なればあはせる目線の位置を気づかふ

目をあはせこころとこころに向かひあひ老のゑがほの綻びを待つ

もの忘れ日々確実にすすめども逢へばほほゑみ忘れずかへす

けふもまた診察重ぬる老なれば目線あはせてただにまむかふ

手をさすり老のこころにそつと触れゑみ交はしあふ刹那のうれし

介護者の名前もいへぬ老なれどゑがほこぼして愛されてゐる

令和の代に老いの生き方うまき人好好ぢいぢ好好ばあば

好好ぢいぢ好好ばあばがいまどきを生き抜く老いのひとつの姿

ゑみ浮かべ誘ひを受けし百二歳ぬり絵が好きとクレヨン握る

百二歳下絵かきをへ色ぬりぬあかむらさきの秋冥菊のはな

百二歳に長寿の秘訣を問ひたれば瑞穂の国の神の加護てふ

けふもまた独り暮らしの寂しさをあれこれ喋る老女の脈診る

離れ棲む娘夫婦への愚痴こぼし老女の吐息おちつきもどす

寡居の身をしかと生きをる老女ゆゑうなづきて聴く身の上ばなし

二人の子育てる娘の生活を気づかひ老女独り生きをる

八十の妻を介護の老いし夫けふもつきそひ言葉かけ入る

妻を看る老々介護の八十五息精(いきせい)はつてしたたかに生く

連れそひて六十余年をともに生き老いの夫婦のつむぎし絆

老いてなお夫婦の愛の姿みる老々介護のふたりに遭ひて

心耳向け聴きとどめたる老い人の生きし証をカルテに記す

俳句部門準賞

雨の中

伊藤恭子

御降りのあとかたのなく雀来る

寒卵素直に割れて雨上がる

野を横に雨の走りて蕗の薹

椿落つ雨三日目の石畳

茶碗蒸の底の銀杏春時雨

利休忌や夜に入りても止まぬ雨

降りはなの雨なら濡れて桃の花

初桜夕べの雨の雫かな

雨こまやかに薔薇園の鉄扉かな

小刀で削る鉛筆傘雨の忌

アイロンに当て布梅雨の家広し

永遠に止まぬ雨かも太宰の忌

中庭を濡らす雨見て泥鰌鍋

シーサイドホテル裏口半夏雨

雨だれの百会に四万六千日

八分目折れ鶏頭が雨の中

荒物屋米屋呉服屋秋黴雨

河原の石より濡れて秋深む

柳葉魚焼く火を宥めたり冬の雨

目薬の後のまばたき霙降る

歩かねば

渡辺智恵

土埃なかなか去らぬ暑さかな

炎帝と違ふ尺度で生きてゐる

向き合へる暑さ向き合へない暑さ

日除して息をひそめてゐたりけり

分かれたきレールもあらう日の盛り

戦争をしたい人ゐる油照

向日葵が溶けてバターになりさうな

夕立のすぐに乾くや閻魔堂

いつまでも追いかけて来る蝉時雨

積めるだけ人詰め込まれ冷房車

溽暑なり遠い記憶の鰓呼吸

片陰を出で行列のなほ続く

蝙蝠や三百頭の牛眠る

鎮まらぬものに水打つのがやつと

風鈴の炎を思い出すことも

熱帯夜ダリの時計が垂れ下がる

言ひさして言はずにおけり心太

空蝉の殻を破るは一度きり

暑さにも水晶ほどの純度あり

歩かねば風死せるまま歩かねば