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2017年度彩の国・埼玉りそな銀行

埼玉文学賞

2018.5.17

「彩の国・埼玉りそな銀行 第48回埼玉文学賞」の受賞作品が決定しました。「小説部門」「詩部門」「短歌部門」「俳句部門」の各正賞を紹介します。

埼玉文学賞とは

埼玉新聞社創刊25周年を記念して制定した「埼玉文学賞」は文学を志す人たちを長年にわたり支援してきました。今年で48回。毎年幅広い年代から作品を集め、県内外から注目される文学コンクールです。小説、詩、短歌、俳句の4部門。埼玉りそな銀行から特別協賛をいただいております。

第48回埼玉文学賞審査員

小説部門

  • 高橋千劔破
  • 新津きよみ
  • 三田完

詩部門

  • 木坂涼
  • 北畑光男
  • 中原道夫

短歌部門

  • 沖ななも
  • 金子貞雄
  • 杜澤光一郎

俳句部門

  • 金子兜太
  • 佐怒賀直美
  • 山ア十生
Placeholder image埼玉文学賞の審査会が行われ、応募作について議論する審査員ら=10月4日、さいたま市中央区のホテル
小説部門正賞

家族の行方

中嶋晋也

 薄暗い空が少しずつ明るんできて、広大な河原に朝の光が降り始めている。川面は光を受けて、鈍い銀色の煌めきを見せている。入間川が大きく蛇行して形成された飯能河原。富田友一は、川岸に設えられたウッドデッキに腰かけている。時間はまだ6時を少し回ったところで、河原には友一のほかに人影はなかった。
8月下旬特有の厳しい残暑が続いているが、早朝の河原は水気を含んだ空気が流れていて心地よい。友一は、朝早くに河原に来て、一人でぼんやり物思いに耽るのが好きだった。今日は、水彩画を描くための道具一式も持ってきている。10年ほど前に独学で水彩画を始めた時は、自宅から十分とかからない飯能河原に足繁く通って、様々な光景を切り取って熱心にスケッチの練習をしたものだった。しかし最近はさすがに飽きて、他の場所に画材を求めることが多くなった。それが、どうしてまたここで描きたいという気分になったのか。どっちにしても、ここのところどうも気持ちが落ち着かない。父親の代から続いたうどん屋を廃業するのを決めたのだから、それも致し方のない事だと思う。しかし、まさか由美子があんなことを言い出してくるとは…。まあ、しばらくは様子を見たほうがいいかもしれない。せっかくの休日だ。わが水彩画の原点に戻って、心置きなく楽しむとするか。
イーゼルの上に水彩用スケッチブックを置くと、友一は入間川の下流の方を見やる。川の水面の十数メートル上方に、赤いアーチ型の橋が架けられている。割岩橋だ。橋の周辺の木々の緑との補色対比が鮮やかで、今まで何度となく描いてきた光景だった。友一は2Bの鉛筆を手に取ると、早速スケッチを始める。
割岩橋が遊歩道橋として完成したのは、昭和60年だった。父親の喜作が肝臓癌で亡くなった年だからよく覚えている。当時、友一は飯能にある電装部品の製造会社に勤めていた。埼玉県内の工業高校を卒業して入社してから、20年が経っていた。入社当初に配属された部品の組立ラインでは、戸惑うことばかりだった。細心の注意を払っているつもりでも初歩的なミスを犯してしまい、先輩社員から毎日怒鳴られてばかりいた。それでも自分なりに工夫を重ね、スキルを磨いていった。生産ライン全般の工程や電気回路などについても、専門知識の学習を積み重ねていった。その努力の甲斐があったのか、30歳を少し過ぎたころに現場主任に昇格し、喜作が亡くなった時には課長の地位にあった。
うどん屋なんか、継ぐことはないぞ。「きさく」は俺一代で終わりでいいんだ。病床で喜作はそういったが、痩せこけた顔には、なにか縋るような表情が浮かんでいた。本心では継いでほしいと思っているに違いなかった。
友一はどうするべきかとことん悩んだ。会社では、中間管理職として重要なポジションについている。しかしこの立場がだんだん重荷になってきていた。生産ラインの効率アップのために、上司の部長は常に強いプレッシャーをかけてくる。それを受けて、友一も自分の部下たちに時には厳しい指示を出さなければならなかったが、これが苦手だった。自分の指示を押し通すことができず、いつも腰砕けになってしまう。部下たちはそんな友一の足元をみて、負荷のかかる仕事をやりたがらなかった。その上、このころになると大学卒の部下が増えてきて、その扱いにも悩むようになっていた。
もうこの辺が限界かもしれない。小さなうどん屋を営んで、マイペースで生きていくのも悪くないか。由美子にも一応相談したが、黙って頷いただけだった。そう、あのころはなんにでも従順に従う女だった。
スケッチはすぐに完成した。バッグから、固形の水彩絵の具の乗ったパレット、筆、水の入ったペットボトルなどを取り出して、彩色の準備にかかる。割岩橋のアーチの鮮やかな赤色をどう表現するか。筆に水を染み込ませて、ローズマダーとバイオレットの2種類の絵の具を、パレットの白い部分で混ぜてみる。イメージ通りの色が出来上がる。スケッチを描いた水彩紙に、色を塗りつけていく。
子供の嬌声が聞こえたので顔を上げると、一組の家族連れが河原でバーベキューの準備をしている。一人の男の子が、調理用の鉄板の周りを、声を張り上げて走り回っている。小学校の低学年ぐらいだろうか。浩一があれぐらいの時分には、毎週のように河原に遊びに来たものだったと、ふと思い出す。バーベキューもやったし、いっしょに川に入って小魚を追いかけたりもした。夏に飯能河原で催される納涼大会にも、毎年出かけた。昼間の金魚すくい大会では、浩一は本当に楽しそうにはしゃぎまわっていた。夜の花火大会には、親子3人揃いの浴衣を着て繰り出した。浩一は、アイスキャンディーを舐めながら、夏の夜空に浮き上る色鮮やかな花火に見入っていた。あの頃は、本当に可愛げがあった。それが、どこでどうこんがらがってしまったのか…。
浩一は、友一が30歳になってすぐに生まれた。俺が70ということは、浩一も、今年で40になるのか。友一は改めて思った。いつものようにまた後悔の念が込み上げてくる。専門学校に行きたがっていた浩一を無理やり大学に進学させたのは、本当に正しかったのかどうか。たとえ三流大学でも大卒の肩書さえあれば、それなりに安定した仕事に就いて、人生を全うできるはずだと友一は信じて疑わなかった。しかし、現実はそううまく運ばなかった。浩一が大学を卒業したころは、とりわけ景気が悪く、新卒の採用を抑える企業が多かった。そんな状況の中で、浩一は中堅の外食産業の会社に就職し、家を出て東京でアパート住まいを始めた。しかしその会社は3年足らずで辞めてしまい、その後は小さなソフトハウス会社や家電量販店、衣料販売会社などを転々としたようだった。そして30になったころに突然家に戻ってきた。毎日パチンコ店に通ったりして、新しい仕事を探す素振りはなかった。ある日の夕食時に友一がたまりかねて、これからどうするんだ、と浩一に詰問したのがきっかけで、大喧嘩になった。その夜のうちに浩一は家を出てしまって、それ以来家に顔を見せていない。1年か2年の間隔で、思い出したように由美子宛てに葉書が来るだけだった。「また工場が変わった。とりあえず、生きてるから」いつもそんな文面だった。派遣社員として、全国各地の工場を転々としているようだった。つい先日、浩一にも「きさく」の廃業を知らせようと思って、一番最近の葉書の住所に手紙を出したが、宛先不明で返送されてきた。
あれから10年か。一体、どこで何をしているのやら…。
「まあ、きれいな絵ですこと」
突然背後から声をかけられる。後ろを振り向くと、薄紫色の日傘を差した女性が、満面に笑みを浮かべて描きかけの水彩画に見入っている。上品で小作りな顔立ちだが、70歳は優に超えているように見える。
「青い空の、少し滲んだ感じが素晴らしいわ。橋の赤い色が、周りの木の緑に浮き立って鮮やかだし」
細い身体に、淡い黄緑色のブラウスを纏っている。
「どうしたらこんな微妙な色が出せるのかしら。どこかで絵のお勉強をなさったの?」
「いや、独学です」
「まあ、すごいわ。わたくしはねえ、色に凄くこだわりがあるの。わたくしも、こんな絵を描いてみたいわ。でも、もう遅いわよね。今年80だから」
「そんなことはないですよ。ちょっと練習すれば、これぐらいすぐに描けるようになりますよ」
「あらまあ、お上手。お邪魔しましたわね。ではまた。ごきげんよう」
そういってにこやかに笑うと、踵を返して車道の方にゆっくりと歩いて行く。友一は、少し気が抜けたような気分になる。気温もかなり上がってきたようで、額が汗ばんでくる。そろそろ仕上げて、退散するか。友一は割岩橋の方を見やると、描きかけの絵に筆を運んでいく。

 河原から家に戻ると、正午を少し過ぎていた。自宅は木造建築で、築年数は50年近い。1階がうどん屋の店舗、そして2階が住居になっていた。友一は2階に上がると、台所で簡単に昼食を済ませた。由美子は今日も都心に出かけている。なんとなく手持無沙汰になって、1階に下りていく。
店の奥にある厨房に入る。冷蔵庫からビールの大瓶を取り出して栓を抜くと、グラスと一緒に店内に運んでいく。店内には、四人掛けのテーブルが3つずつ2列に並んでいる。友一は入口寄りのテーブルの椅子に、ゆっくりと腰かける。やはり、少し腰が痛む。いままでずっと手打ちうどんに拘ってきたが、2、3年ほど前からうどんを作る作業がだんだん辛くなってきた。うどんの生地を足で踏み続けて仕上げていく「足踏み」と呼ばれる工程が、特にきつかった。足を踏み続けている間に腰が痛み始めて、作業を中断することもしばしばだった。
このへんが潮時だろう。ビールをグラスに注いで一気に飲み干すと、胸の内で呟く。親父から引き継いで、何とか30年以上やってこられた。常連客も、もう体がもたないからというと、皆納得してくれた。由美子に至っては、店を辞めたいというと、その言葉を待っていましたとばかりに表情が明るくなった。結婚記念日の9月15日に閉店するのはどうかしら。まるで、善は急げという感じだった。
いつの間にかビール瓶は空になっていた。少し酔いが回ってくる。友一はぼんやりと店内の壁に目を向ける。木板でできたお品書きが横一列に並んでいる。その下に、いくつかの額縁が掛けられている。友一が描いた水彩画だった。店を畳んだ後は、のんびりと水彩画を描いて楽しんでいけばいいと思っていた。そして、念願だった海外旅行に由美子といっしょに出かける…。由美子は以前から、中世の面影の残るヨーロッパの都市に訪ねてみたいと言っていた。しかし、うどん屋のような飲食店は、そうそう長い休みを取るわけにはいかない。由美子と結婚してから、海外どころか国内の1泊旅行すら数えるほどしか行ったことがなかった。
フィレンツェでドーモやウフィツィ美術館を見学して、それからベネチアに回るのはどうかな。1週間程前の夕食のときに、それとなく探りを入れてみた。しかし、由美子は乗ってこなかった。それどころか、とんでもないことを言い出した。来年4月から、大学に行きたい…。

「大学って、市民大学講座とか、そういうやつ?」
「そうじゃなくて、本式の4年生の大学。浩一が通ったような大学のことよ。ちゃんと入学試験を受けて、合格したら、晴れて大学生になるってこと。来年4月の入学を目指して、必死になって頑張るつもりなの」
「なんなんだよ、急に。からかってるんじゃないんだろうな」
「こういっちゃなんだけど、お父さんにわたしの気持ちが分かってもらえるとは思ってないの。でも、本気で考えてることだけは分かって欲しいの」
「来年大学に入るって、お前、68の大学生じゃないか」
「年なんか関係ないわ。人生の残り時間が少なくなっていく中で、全力で目標にぶつかってみたいのよ」
「なにを勉強したいのか知らないけどさ、カルチャースクールに行ったり、自分で本を読んだり、それで充分なんじゃないか」
「だからさっき言ったように、分かってもらえないと思うのよ。本当のことを言うと、自分でもどうしてここまで気持ちが昂ぶってくるのか、よく分からないところがあるけど。なんていうのか、今まで見聞きしてきたことを一旦全部白紙に戻して、すべての物事を捉え直したいというか。だから大学に入って、できるだけ多くのことを学びたいのよ。高校でまともに勉強したこともなかったから、受験勉強もすごく新鮮だし。少しずつでも知識が増えていくのが楽しいの」
「最近、東京に出ることが多いとは思ってたけどさ。まあ、いろんな刺激を受けたのかもしれないけど、ちょっと頭を冷やした方がいいんじゃないか」
「なにがなんでもやり抜くつもりだから。ここで中途半端に終わったら、死んでも死に切れない気持ちなの。海外旅行にいくお金があったら、入学金に充てたいわ。授業料のお金が足りないんなら、掃除のおばちゃんをしてでも稼ぐつもりよ」

由美子があれほどはっきり自分の意志を示したことは、今まで一度もなかった。由美子の迫力に気圧されて、あの時は言葉を継ぐことができなかった。一体、どうしてあんなふうになってしまったんだろうか。共白髪まで、穏やかに日々を重ねていく。由美子もそんな気持ちでいると思っていたのに。なんだかもやもやした気持ちが膨らんでくる。ここは文夫と飲むしかないな。友一は早速メールを送った。

「マスター、酎ハイもう一杯」と、高畑文夫が張りのある声を上げる。友一は文夫と差向いに座っている。西武飯能駅から歩いてほど近い、行きつけの居酒屋だった。小さな店だったが、常連客で席はほとんど埋まっていた。
「どうしたんだよ、さっきからしけた顔して。酒が足らないんじゃないか。はっはっは」
文夫はいつものように朗らかだった。駅の近くの古い商店街で、親から継いだ金物屋を長年営んでいる。小学校四年生の時に同じクラスになって以来、2人の付き合いはずっと続いていた。
「閉店セレモニーがもうすぐなんだからさ。主役が元気がなかったらしょうがないじゃないか」
目尻の下がった愛嬌のある顔で、文夫がからかうように言う。閉店セレモニーは文夫の発案だった。9月15日に最後の営業を終えてから、店に有志が何人か集まってささやかな宴を催す予定だった。
友一はさっきから焼酎のロックをちびちび舐めている。由美子の大学の件を聞いてもらいたくてしょうがないのだが、どう切り出したものか、うまい具合に言葉が出てこない。
「しかしなんだよな。女っていうのは何考えてるのか、ほんと分かんないよな」
「なんだよ、急に。由美子さんのこと?」
「最近なんだが強情で、参っちゃってるんだよ」
「あんな出来た嫁さんはいないぞ。お前が会社辞めるときも二つ返事でオーケーしてくれたんだろ。うどん屋を継いだ後も、お運びさんでもなんでも、文句ひとつ言わずに甲斐甲斐しく働いてきてくれたんじゃないか」
「だから、余計わからないんだよ。実はさあ、急に大学に行きたいって言い出してさ」
「はあ?」
「そう、はあ?だろ」
この間の由美子との会話を、文夫に手短に話す。うーむ、と一言唸って、文夫が小首を傾げる。
「たしかに、よく分からない話だな。まあ、こういっちゃなんだけど、70を前にして、ようやく自我に目覚めたというところかな」
文夫は時々難しいことをいう。今の外見からは想像できないが、若い頃は文学青年の雰囲気を漂わせていた。
「あれだけ楽しみにしてた海外旅行の話をしても、全然乗ってこないしさ。どうしたらいいと思う?」
「どうしたらって、お前、絶対に反対なの?由美子さんが大学に行くのが」
そういわれると、答えに窮してしまう。自分は一体何に引っ掛っているのだろうか。経済的な問題ではないと思う。大学の授業料が多額なのはわかっているが、貯金を取り崩せば何とか手当てできる。そういうことではなくて、気持ちの擦れ違いということだろうか。自分が思い描いていた引退後の生活に、由美子が歩調を合わせてくれないことが不満なのか。そして、全く新しい世界に挑戦しようとしている由美子の姿をみて、取り残されたような寂しさを感じているのだろうか。なにか子供が拗ねているような気がして、情けなくなってくる。友一はまた焼酎のロックを舐める。
「反対かどうかって、よくわかんないんだよ、自分でも。でもなんか諸手を挙げて応援する気にもなれないんだな」
「また、折りをみて、2人でじっくり話してみればいいじゃないか。今はちょっとぎくしゃくしてても、またうまい具合に収まるって。はっはっは」
たしかに、もう一度じっくり話してみるしかないだろう。しかし、由美子の気持ちが変わるとは、友一には思えなかった。これからうちの夫婦はどうなってしまうのか。また憂鬱な気分になってくる。
「まあ、しかし、どこの家庭でもいろいろあるな。お前だから言うけど、実はうちの娘のとこも、ちょっと厄介な状況でさ」
「麻美ちゃんのとこ?」
「そう。今、こっちに帰ってきてるんだけど」文夫の表情が急に陰りを帯びる。
麻美は文夫の一人娘で、たまたま中学、高校は浩一と同じ学校に通っていた。短大を卒業してから生命保険会社に就職して、その会社の男性と職場結婚していた。その夫の転勤で、今は神戸の方で暮らしているはずだった。
「麻美の夫が胃癌でさ、しかもステージVなんだってさ。まだ44歳で、笑っちゃうだろ。はっはっは」文夫は不自然な笑い声を上げると、酎ハイのグラスを一気に飲み干す。
「おいおい、ほんとかよ。こんなとこで飲んでる場合じゃないんじゃないか」
「ばか、こういう時だからこそ、飲むしかないんだよ。お前から連絡があって、救われた思いだったんだから。今頃、女房と麻美で喧々諤々の大騒ぎだよ。麻美は夫の面倒を見なきゃならないけど自分の仕事もあるし、子供の世話もあるしで、もうパニック状態だよ。女房は女房で、孫の事ばかり気にしているし」
麻美には男の子と女の子が1人ずついると聞いていたが、まだ2人ともせいぜい小学校の高学年ぐらいだろう。
「5年生存率は40%ぐらいなのかな。当面命が繋がるとしても、この先どうなることやら。神のみぞ知る、だよ」
突き放したような言い方だったが、娘への思いがにじみ出ている気がした。
「うちの浩一と違って、麻美ちゃんは順風満帆だと思ってたけどな」
「人生には落とし穴があるってことだよ。ところで、浩一君は相変わらず?」
「ああ、この2年ぐらい梨の礫だよ。生きているのか死んでいるのかもわかんないよ」
友一は自嘲気味に答える。
「そのうちいい便りが入ってくるって。辛気臭い話は置いといて、とにかく飲もうぜ。こういう時は景気づけが大事なんだから」
文夫はそういうと、大きな声で酎ハイのお代わりを注文した。

最後の客が帰ったのは、夜の9時を回ったころだった。友一は暖簾を取り込むために外に出る。昼間の熱気はすでに冷めて、涼やかな夜風が頬を撫ぜる。店内に戻ると、厨房の方から、由美子が食器を洗う音が聞こえてくる。友一は厨房に入ると、由美子の背中に声を掛ける。
「夜は、少し涼しくなってきたな」
「そうね」と、由美子のそっけない返事が返ってくる。由美子が大学のことを言い出してから10日ほど経っていたが、あれからまともな会話を交わしていない。さすがに気まずい空気に耐えられなくなってきている。今夜こそちゃんと話そう。しかし、大学のことを持ち出すと険悪になりそうだし。さて、どうするか。
「閉店まで、ついにあと一週間だよな」
「そうね」
由美子は相変わらず食器を洗いながら背中を向けている。
「セレモニーなんか、安請け合いするんじゃなかったかな。なんか、気恥ずかしくてさ」
「文夫さんがわざわざ発起人になってくれたんだから。感謝しなくちゃ」
どうにもとりつく島がない。ここは少し、際どい球を投げてみるか。
「ほんとは、セレモニーに浩一にも来て欲しかったんだけどな。いまごろ、どこで何をしているのかな」
友一がそう言うと、由美子の背中がほんの少し揺らいだ気がしたが、由美子は黙ったままでいる。
「あいつも、それなりに努力してるんだろうけどさ、もうちょっと堪え性があってもいいと思うんだよな」
「そんなふうに決めつけるのは、よくないんじゃないかしら」
友一はびっくりした。何気なく漏らした言葉に由美子が反応してきたのは予想外だった。
「わたし、最近思うんだけど、もしかしたらわたしたち、いや少なくともわたしは、浩一のことをちゃんと理解してなかったって」
「どういうこと?」
「最初はわたしもお父さんの言う通りだと思ってたのよ。大学を卒業して入社した会社は3年足らずで辞めちゃうし、それからいくつも会社を転々として。ここ10年ぐらいは派遣社員として工場で働いているみたいだけど、しょっちゅう職場が変わるし。もうちょっと頑張れないのかなって。でも、どういうのかな、浩一個人には太刀打ちできないような社会の流れがあると思うの」
また難しいことを言い出してきたと思った。とりあえず話を聞くしかない。
「浩一が社会に出たのは、西暦でいうと2000年だけど、この年は新卒の就職が一番厳しかったの。超就職氷河期って言われているぐらいだから。そんな中でも、浩一は諦めずに就職活動をやり抜いたと思うの。それで、何とか外食チェーンに潜り込んで。だけど、仕事の内容は、想像以上に厳しかった。最初から店長を任されて、しかも毎日午前様で休日もほとんどないような異常な勤務状態。そういってたと思うわ。だから、3年足らずで辞めたんじゃなくて、そんな厳しい職場で、3年間も必死になって頑張ったのよ」
由美子は相変わらず背中を向けているが、少し声が大きくなってきた気がする。
「それから小さなソフトハウス会社とか、販売関係の会社に勤めたみたいだけど、どこもきつかったんじゃないかしら。俺が入れる会社はタコ部屋みたいなとこしかないって、卑下するように言ってたけど。今でいうブラック企業みたいなところだったのかもしれない。どっちにしても、家に戻ってきたときは、心身ともにぼろぼろになってたのよ。今更遅いけど、あのとき、半年でも1年でも、ゆっくりしなさいってなんで言えなかったのかなって」
そういわれると、苦い思いが込み上げてくる。浩一が家に戻ってぶらぶらしていたのは、せいぜい3カ月ほどだった。まあ、人生長いんだからたまにはゆっくり休めよ。そんな言葉を掛けてやればよかったのか。しかし喧嘩になったあの晩、浩一に「お前に何がわかるんだ」と怒鳴られて、友一は感情を抑え切れなくなってしまった。親に向かってお前とはなんだ。お前みたいなごくつぶしは今すぐ家を出ていけ。その言葉通り、浩一は箸を置いて5分もしないうちに出て行ってしまった。
「浩一は、今も頑張っていると思うわ。工場の現場の仕事は不本意かもしれないけど、生活のために、必死になって一日一日生き抜いてるんじゃないかしら」
それはそうなのかもしれない。しかし、何か違うなと思ってしまう。
「そうなんだろうけどさ。だけど、どうしてしょっちゅう働く場所が変わってしまうのかな。俺も若いころは工場の現場で働いていた。最初はミスばっかりで、先輩社員に毎日怒鳴られていた。でも、少しずつ努力することで、周囲の評価が変わっていったし、大事な仕事を任されるようになった。こんなことを言うとまた浩一をけなすようだけど、そういう努力がちょっと足りないんじゃないかな」
「それは、正社員と派遣社員の立場の違いよ」
由美子が一言で切り捨てる。
「派遣社員がいくら頑張っても、与えられた職務が変わることはないわ。それに、会社の業績が悪くなると、すぐに雇い止めの憂き目に遭ってしまうし。時代は変わってしまったのよ。たぶん、浩一は会社の都合で振り回されているんだと思うわ」
何をいっても、理論武装している由美子に勝てないと思った。いや、そもそも勝つとか負けるとか、そんな話をしているわけではないのだが。
「いろいろ勉強してるみたいだけどさ、結局、浩一のことが気がかりだったのか?」
「一つのきっかけではあったけど、浩一のために勉強してるわけじゃないわ。浩一の人生は浩一のものだし、自分で切り開いていくしかないのよ。わたしは、自分が勉強したいから、自分のためにそうするだけ。みんな、それぞれの人生でしょ」
由美子はそういうと、急に体を反転させて、友一と向き合った。
「お父さんもね、わたしや浩一にかまわないで、自分のやりたいように人生を送って欲しいの」
真直ぐに見つめてくる由美子の視線が、何故か眩しかった。何か言おうと思ったが、結局何も言えなかった。

 足の裏にごつごつした石の感触が伝わってくる。朝日に映える入間川の流れを右手に見ながら、友一は河原を川の上流のほうに歩いて行く。河原を横切るようにして飛ぶセキレイの姿が目に入る。犬を連れた年輩の女性とすれ違ったが、ほかに人影はなかった。
自分のやりたいように人生を送って欲しいの。昨夜の由美子の言葉が、まだ頭の中に残っていた。たぶん、由美子が言っていることが正しいのだろう。一人一人が、自分の人生を生きていく…。しかし、と友一は思ってしまう。この年になって、そんなに身構えて、新しい人生を切り開くとかなんとか頑張らなくてもいいんじゃないのか。由美子がどうしても大学に行きたいのなら、それはもうサポートするしかないだろう。しかし、今の感じだと、二人の間の距離が、どんどん離れていってしまう気がしてしょうがない。もっと、なんていうか、長い人生をいっしょにしみじみ暮らしているという、そんな一体感のようなものがあってもいいのではないか。
川にコンクリートの堰が設えられているところで、友一は立ち止まる。穏やかだった川の流れが急に変わって、白いしぶきを上げて滑るように流れ落ちていく。
ここは少し強引な手に出てみるのもいいかもしれない。うまくいかなかったら、その時はまた考えるしかない。当たって砕けろ、だ。友一は胸の内で呟くと、元来た道を戻っていく。

 友一は生ビールのジョッキを一口呷ると、ゆっくりと息を吐く。明治通り沿いにある食事と飲み物を提供するカフェのような店だった。久しぶりに池袋に出てきたせいか、午前中に用事を済ませると、どっと疲れが出てきた。とにかく一休みしようと思って、目についた店に入ったのだった。窓ガラス越しに見える昼下がりの通りには、ひっきりなしに人が行き交っている。飯能から池袋まで電車で1時間足らずなのに、友一は年に一度か二度しか池袋に出なかった。来るたびに人が増えていると感じるのは、気のせいだろうか。
由美子には、水彩画の画材道具を買いに行くと言って、家を出てきた。池袋に着いてから、まず銀行に行って、友一の個人名義の口座から100万円の現金を下した。毎月の小遣いの使い残しや、絵画コンテストの入賞賞金を、こつこつ貯めてきた口座だった。総額は300万円以上に積み上がっていたが、とりあえず100万円あれば足りるはずだった。
それから旅行代理店に行って、エーゲ海クルーズがメインのツアーを2人分予約した。支払った金額は70万円だった。時期は少し迷ったが、来年の3月にした。この頃なら、由美子の大学受験も終わって、少し落ち着いているだろう。そういう読みだった。
旅行代理店を出てから、時計の専門店に向かった。ペアの腕時計を買うためだった。何を買えばいいのか皆目見当がつかなかったが、店員に予算を言って、適当に選んでもらった。国内メーカーの製品だったが、シンプルなデザインが気に入った。価格30万円。旅行ツアーの代金と合わせて、ちょうど100万円だった。これだけの金額を1日で使ったのは、生まれて初めてだった。
ジョッキに残ったビールを、友一はゆっくりと飲み干す。さてと、これで準備はできた。あとは、どういう風に由美子に手渡すか…。閉店のセレモニーは明日に迫っていた。プレゼントを手渡すとしたら、絶好の機会だと友一は考えた。エーゲ海のクルーズを選んだのは、ゆったりとした船旅の方が、より2人の時間を共有できると思ったからだった。ペアの腕時計は、人生の残された時間を、2人で共に歩んでいこうというメッセージを込めたつもりだった。しかし、こちらの気持ちがうまく伝わるかどうか。時計はまだしも、旅行の方はまた由美子が難色を示してくるんじゃないか。まあ、余計なことを考えてもしょうがない。当たって砕けろ、なんだから。

 宴もそろそろ終わりに近づいていた。平常の営業は夜の七時に切り上げて、それからセレモニーの準備をした。店のテーブルを移動させて、店の中央に島を作った。そこに友一が作った天ぷら、出前で取った寿司桶やピザ、あられやピーナッツなどの乾き物、ビール、日本酒、ワインなどのアルコール類を並べた。文夫が早めに来て、手際よく手伝ってくれた。
出席者は全部で20人ぐらいだった。常連客に加えて、近所の主婦が何人か参加していた。飲み会が始まってから1時間ぐらいしたところで、中締めということで友一が挨拶させられた。常連客の長年の愛顧に対して、率直に感謝の念を述べただけだったが、出席者からは盛大な拍手が沸き起こった。友一の胸に熱いものが込み上げてきた。
「そろそろお開きの時間かな」
それまで場所をあちこち移動して、出席者一人一人と酒を酌み交わしていた文夫が寄ってきて、友一の耳元でささやく。壁の時計を見ると、9時50分だった。
「ちょっとさ、お前に話しておかなきゃならないことがあって」声を潜めて、文夫がいう。
「実はさあ、こっちも金物屋を廃業することにした」
「なんだって」
「前々から話してたと思うけど、売り上げは落ちるばっかりでさ。もう、個人商店の時代じゃないんだよ」
たしかに文夫はそんな話をしていた。店を畳むと、やることがなくなるから続けているだけだと。
「それで、これからのことなんだけどさ。女房と一緒に、麻美のところに行くことになったんだ」
「えっ、神戸に行くのか」
「ああ。女房が、今のままだと麻美が潰れちゃうって。誰かの手助けが必要だってうるさいんだよ」
友一は何か言おうと思ったが、すぐに言葉が出てこなかった。
「生まれてこの方、ずっと飯能に住み続けて、ここで死ぬと思ってたんだけどさ。やっぱり人生、何が起こるか分からないな」
文夫は言葉を切って、右手に持っていたワイングラスを呷る。
「嫌だって言ったんだよ、最初は。だけど、こっちで一人で住んでたって、何の役にもたたないしさ。いや、結局飲んでるだけなんだろうけど、向こうに行っても。はっはっは」
やっと文夫らしい笑い声を上げる。
「淋しくなるな」友一は絞り出すように声を出す。
「由美子さんがいるじゃないか」
そう言われて、友一は由美子の方を見やる。主婦のグループの輪に入って、にこやかに談笑している。
「さて、そろそろほんとにお開きにするか」
文夫はそういうと、「えー、お集まりの皆さん。お楽しみのところ恐縮ですが、そろそろお時間が来たようです」と、大きな声を張り上げた。
友一と由美子が店の入り口を出たところで並んで立って、出席者が店から出てくるたびにお辞儀をする。主婦の代表からセレモニーの最後に贈られた花束を、由美子は手に持ったままだった。最後に文夫が店を出てくる。
「肉汁うどん、おいしゅうございました」と、文夫がおどけた調子でいう。
「近いうちに飲もう」
「もちろんだよ、明日でもいいぜ」
文夫は右手を上げると、夜道をゆっくりと歩いて行く。友一はその後ろ姿が闇にまぎれるまで、じっと見つめていた。

 店内に戻ると、友一はテーブルの上に残った紙の皿やグラスをぼんやりと眺める。さっきの文夫の話がまだ尾を引いている。あいつがいたから、ここまでやってこられたのに…。しかしいつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。まだ、大事なことが残っている。友一は店のレジの近くに置いておいた小さな紙袋を手にすると、店内の片づけを始めている由美子に声を掛ける。
「テーブルの移動は、明日俺がやるからさ」
「わかったわ」と、由美子がテーブルから顔を上げて答える。
「それでさ」と言いながら、友一は紙袋を持って由美子に近づいていく。
「まあ、なんていうか、一つの節目だと思ってさ。ちょっとしたものを用意したんだよ」
友一は紙袋から、腕時計の入ったケースを取り出す。
「ペアの腕時計。いい年してペアなんて気恥ずかしいけど、たまにはいいかなと思って」
「ありがとう」と素直に言って、由美子がケースを受け取る。ここまでは順調だ。さて、お次はどうなるか。
「それからさ、やっぱり2人で旅行するのも悪くないんじゃないかなと思って。エーゲ海のクルーズなんだけど。来年の3月だから、大学受験も終わってる頃だし」
友一が紙袋から旅程表を取り出そうとしたときに、「悪いけど、それキャンセルできない?」と、由美子がすまなさそうに言う。やっぱり駄目だったか。
「わたしね、実は行きたい国があるの。そっちに変更したいの」
「なに、どういうこと?」
「もうすぐわかるわ。お父さんに黙ってて悪かったけど」
友一は何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。
「ちゃんと説明してくれよ」
「3週間ぐらい前だったかな、麻美ちゃんが家にひょっこり来てくれたの。お父さんが文夫さんと飲みに行ってた時かな」
たしかに麻美が実家に戻ってきて、大騒ぎになっているという話だった。
「その時、浩一の話が出たの。二人は今でもたまに、メールで連絡を取り合っているんだって。それでね、びっくりしないでね、今浩一はカンボジアにいるらしいのよ」
「カンボジア?」友一は思わず大声を上げてしまった。
「日本で知り合ったカンボジアの女性と結婚して、それから向こうに行っちゃったんだって」
なにやってんだ、あの馬鹿は。
「麻美ちゃん、自分が大変な時にいろいろ気を使ってくれてね。今日のセレモニーのことを、浩一にメールで知らせてくれたの。そしたら、数日して浩一から麻美ちゃんに返事がきて、セレモニーが終わったころに直接こっちに連絡するって。だから、もうすぐなのよ」
友一は、まだテーブルに残っていた缶ビールを手に取ると、プルトップを引き上げて一気に喉元に流し込む。2年も連絡がないとやきもきしていたら、カンボジアにいるだと。しかも、結婚してる?本人が目の前にいたら、怒鳴りつけたい気分だった。
「あっ、かかってきた。お父さんもこっちに来て」
壁際に寄せた椅子に座っていた由美子が、甲高い声を上げる。スマホを右手で持って、自分の目の前に翳している。友一は仕方なく由美子の隣の椅子に座って、スマホの画面を覗き込む。浩一と思しき男と、まだ20代にしか見えない若い女性が並んで立っている。
「ずっと連絡していなくて、すいません。詳しい話はあとでするとして、今夜で店が終わってしまうって、麻美ちゃんから聞きました。長い間、本当にご苦労様でした」
声は確かに浩一のものだった。10年前に比べて顔が随分引き締まって、精悍になった気がする。
「初めまして、チャクと申します。よろしくお願い致します」
浩一の隣の女性が少したどたどしい日本語でそういうと、ゆっくりとお辞儀をする。顔を上げると、にっこりと微笑む。素朴で愛嬌のある表情だった。
「何からどう話していいか分からないんだけど、チャクとはある工場に勤務している時に知り合ったんだ。チャクは技能実習生として、日本に来ていた。正直、すぐに好きになって、付き合いだした。それで、もう結婚するしかないなって。いろいろとややこしい手続きが必要だったけど、勢いでクリアしちゃった」
チャクが浩一の方を見て、小さくうなずくような素振りを見せる。
「麻美ちゃんにだけ知らせて、そっちに連絡しなかったのは悪かったと思ってる。2人の生活が落ち着いてから、ちゃんと報告しようと思ってたんだ。まあ、俺も、いろいろ考えたんだけどさ、これから先のことを。年も40に近づいてきて、このままの調子じゃ、どうしようもないんじゃないかなって。で、思い切ってチャクとカンボジアに行くことにしたんだよ」
「今、何をやってるの?」
由美子が口を挟む。友一もそれが気になっていた。
「ちょっと待って。今、お見せしますから」
浩一がそういうと、スマホの画面が動いて、いくつかのテーブルが現れた。小さな食堂のような雰囲気だった。
「実はね、うどん屋をやってるんだよ。プノンペンの街中で」
「はあ?」友一が思わず声を上げる。
「店を始めてまだ1年半ぐらいだけど」
「すごいじゃない」と、由美子が感嘆したような声を出す。
「覚えてるかな。俺、中学生とか高校生の時に、ひまがあるとうどん作ってたよな。親父には、仕事の邪魔するなっていつも怒られて。でも、親父のやり方を横でみて、結構真剣にマスターしようと思ってたんだ。別に、うどん屋を継ぐとか、そこまでは考えてなかったけど。有難いことに、あの頃の体験が今役に立ってる。こっちの店では手打ちの肉汁うどんを売りにしてるんだけど、味もまずまず好評で。親父のうどんにはもちろんかなわないけどさ」
たしかにそうだった。浩一は、仕込み時の忙しい時に限って、厨房に入ってきて、うどんを作る工程を熱心に見ていた。友一の胸に、複雑な思いが込み上げてくる。10年前、浩一が家に戻ってきたとき、勤め人の生活に見切りをつけてうどん屋を継ぐかどうか、迷っていたのではないか。自分が会社を辞める時に随分迷ったのと同じように。やっぱり、浩一の気持ちを、何も分かっていなかったのかもしれない。
「儲かってるのか」友一がぶっきらぼうに聞く。
「お蔭様で、何とか黒字は維持している。だけど、店の資金の半分は、チャクの両親に借りてるしね。とにかく、もっと稼がなきゃ駄目だよ。来年には、家族が増える予定だし」
「えっ、なに、赤ちゃん?」由美子がまた甲高い声を出す。
「来年3月の予定です」と、チャクが少し恥ずかしそうに言う。
「まあ、ちょうどよかったわ。電話の前にね、お父さんと3月ぐらいにカンボジアに行こうって、話してたところなの。ね、お父さん」
なんて調子のいいやつだと思った。友一はしかし、画面に映る浩一とチャクに向かって、ゆっくりと頷いていた。

 朝の光が、雲の切れ間から放射線状に河原に降り注いでいる。友一はいつものようにウッドデッキに腰かけて、ぼんやりと河原の方を眺めている。
昨夜はほとんど眠ることができなかった。浩一とのスマホでのテレビ電話が、未だに夢か何かを見ていたように思えてしまう。カンボジア人の女性との結婚。カンボジアへの移住。そして、現地でうどん店を開業。どれもこれも、想像の域をはるかに超えていた。親父のうどんにはもちろんかなわないけどさ。まったく、うまいことをいってくれる。なにか面映ゆいような、妙な気持ちになってしまった。不意に、浩一とチャクが仲睦まじく並んで立っていたスマホの画像が浮かんでくる。子供が出来たら、これからの生活はもっと大変になるだろう。浩一の人生は浩一の人生。由美子がそう言っていたが、これからどんな苦難があっても、浩一が乗り越えていくしかない。
さて、これからどうやって、一日一日暮らしていくか…。由美子は、大学入試に向けて、寸暇を惜しんで勉強に励んでいくだろう。そして、文夫はもうすぐ飯能からいなくなってしまう。うどん屋は昨日で閉めてしまったし、生活の核になるものをいっぺんに失くしてしまって、ひどく心もとない気持ちになってくる。
「あら、今日は水彩画はお描きにならないの?」
突然背後から声がかかる。後ろを振り向くと、以前この場所で出会った老女が、この前と同じ薄紫色の日傘を差して立っている。
「今日は道具を持ってきてないんですよ」
「あら、そうですの。残念だわ」
言葉とは裏腹に、満面に笑みを湛えている。
「今度機会があったら、是非教えて頂きたいですわ。ではまた。ごきげんよう」
そういうと、前と同じように、車道の方に歩いて行く。
何か小さなアイデアが、芽生えたような気がした。いっそのこと、店で水彩画教室を開いてみてはどうか。店のスペースを遊ばせておくのはもったいないし、生徒は店の常連客達に声を掛ければ、口コミで多少は集まるかもしれない…。まあ、あわてることはないか。ゆっくり考えていけばいいだろう。時間だけは、たっぷりあるんだから。
友一はゆっくり立ち上がると、入間川の上流の方に目を向ける。朝日を受けて、川面が美しく輝いていた。

選評

社会問題生かされ意外な結末も美味

 最終選考に残った8作品はいずれも筆力があり、例年に比べてもレベルが高かった。その中でも中嶋晋也さんの「家族の行方」が頭一つ抜けていた。

 受賞作は題名の通りの家庭小説で、飯能市内のうどん店を父親から継いだ70歳の主人公の視点で、妻との関係、息子との関係を丁寧に描いている。老後の価値観が一致していると思い込んでいたのは本人だけで、妻は大学に行きたいと言い出したり、就職氷河期に大学を卒業した一人息子は、親の期待を裏切って40歳になるいまも派遣社員として全国の工場を転々としていたり…。

 書き出しは説明的でやや重たく感じられもするが、後継ぎ問題、非正規雇用、老後の夫婦関係、と現代的なテーマが生かされており、ミステリー的な意外な結末も用意されていて後味がいい。主人公の友人の家庭のエピソードも作品に奥行きを与えている。欲を言えば、うどん店の廃業を決めた主人公の寂寥感を、趣味とする水彩画にもう少し結びつけた描写がほしかった。

 佳作は、清水晃子さんの「炎の声」と澤英明さんの「柘植の骨」に決まった。清水さんは第41回埼玉文学賞を短歌部門で受賞された方であり、文章力や構成力は申し分ない。ひきこもりの女性と工務店の作業員。若い男女の交流はほのぼのとしているが、小さくまとまりすぎて、華がほしいという意見が出た。澤さんの作品は熊谷空襲と恋愛を絡めた点はおもしろいが、物語が尻切れトンボの感が否めない。2人とも次作に期待したい。 

(新津きよみ)

短歌部門正賞

輜重兵なりし父

阿部功

死なず帰りし輜重(しちよう)兵なりし父汗みどろで塩なめながら草を刈りをり

官林の間伐材で焼きし炭三里背負ひても売れぬ日ありき

炭窯のけむり浅葱に変はるまで狭き焚口に薪を投ずる

走根に躓き谷へ荷ごと落つ「炭濡らすな」と父の声降る

前線でとどめを刺した愛馬の眼忘るることなき父の生涯

直立の前川清好きだつた父は富士にも十度の礼せり

母代わりの姉のエプロン長ければ裾一尺を父は断ち截る

地吹雪に父の沓音聞き分けて妹立てば姉は炭継ぐ

竹の子はボーナスだよと言ひし父鉈があればと鈴など付けず

袖めくり熊の歯型を見せる父熊が勲章呉れたと笑う

皮鞄提げて勤める人になれ濁酒に酔ひし父の口癖

数多あるやまひ垂れの字その中に癒ゆるのありて杣(そま)夫(ふ)に戻る

雪割つて掘つた野蒜はもう和えた出稼ぎ帰りの父の着く頃

哀しきは就職列車の笛の音よ頬被り解き見送る父よ

苦学生などと呼ばれたあの頃が夢も希望も平和もあつた

金の卵ともて囃されて働けり非正規雇用と呼ぶ世哀しむ

父を前にきつと戻ると言つて出てふるさと恋しなどとは言はぬ

雪処理に疲れし父を呼び寄せるも吾を親不孝者とは言はざり

ふるさとを離るる朝甥を呼び父は茸の出どころ伝ふ

鳥海山のふもとに子らの集ひ寄り父祖の改葬静かに終はる

選評

重厚な表現 感銘呼ぶ

 今回の短歌部門への応募総数は、前回より16編少ない44篇で、男女比は20対24であった。世代別では70代が19篇で最も多く、60代が9篇、50代が5篇、40代と80代が各4篇、20代30代90代が各1篇であった。

 海外からの応募者としてカンボジアとベトナムから各1篇、福岡県の作者から1篇、他はすべて埼玉県在住で、秩父夜祭や秩父巡礼で20首をまとめたり、埼玉にちなむテーマでの応募作が5篇ほどあった。

 タイトルだけで作者名や年齢などすべて伏せた原稿によって、沖ななも、金子貞雄、杜澤光一郎の3審査員が選考に当たったが、3選者が共に候補作として上位に推薦していた幸手市在住の阿部功氏(76歳)の「輜重兵なりし父」というタイトルの20首詠を文学賞に推すこととし、全体会にはかり決定をみた。

 阿部氏の1篇は敗戦後の日本が辛酸をなめながら必死に復興してゆく時代を背景とした小説的な一連で、重厚な表現が感銘を呼ぶ。

 なお、水野勝浩氏の「百の扉」、立石武男氏の「囲碁」、坂口真由美氏の「娘の入院」の3篇も受賞作に次ぐ力作として審査の対象となっていたことを付記しておく。

(杜澤光一郎)

詩部門準賞

ガラスの箱 ‐二〇一七年初夏

林哲也

車内吊りに
人工知能が近未来を席巻する≠ニある
すでに
ひとの姿でまぎれているかも知れない
不安が頭をもたげる
阿吽(あうん)の呼吸とか 眼でしゃべるとか
ひとの高尚な術(すべ)はいらなくなるのか

かつて通勤した都心(まち)を歩く
空を鋭角にふさぐ高層ビル
職場には高度成長の風
仲間と心ひとつに向かった
五十二階のガラスごし
世が吐き出した霞の砂漠
墓標のようなビル の疲れた背中
足元の街にみだれ急ぐ蟻の大群
燃えさかる夕陽が眼に痛い
夜は発光したまま眠い朝をむかえる
四半世紀が過ぎ
いま新たな風の匂い
仰ぐと うごめく影
人工知能のロボットにちがいない
(群れの一員になった気分はどうだ
(きつい指令に鬱になることはないのか
(黙々とひとりで孤独を感じないか

呼吸をあわせて得たあの達成感は
過去の遺物
汗と涙の干からびた知能は
ガラスの箱に残っているだろうか
時代のピンに止められて

詩部門準賞

月夜の風景

小野光子

カーテンの
隙間から
射しこむ光

私の横に下の子が
その隣に上の子が
その向こうに夫が

一つさやに眠る
豆のようで
こっそり笑う

ひとは
最期
人生で一番
幸せだったことを
思い出すと
聞く

私が見る風景は
もう
決まっているな

どこかで
白い花が咲いた
月が
ますます明るかった

その夜

選評

全国レベルに向上

 今年の現代詩の応募は、昨年の170点を超え、205点に及んだ。関東地区はもとより、福岡、宮城、岐阜、愛知、そして海外はイギリスからの応募もあった。それは、埼玉文学賞が、いまや単なる埼玉という地域の賞ではなく、全国レベルのものになってきたということだが、この賞にはいつも多大なるご支援を頂いている埼玉りそな銀行の存在を忘れてはならないだろう。昨年の受賞者が、この文学賞の賞金を基金として、処女詩集を上梓し、「(社)日本詩人クラブ」の会員に推挙されたことを聞き、この賞の意義と重さを改めて再認識した次第である。さて、今年は正賞はなく、文明批評を内包した林哲也氏の「ガラスの箱」と感性あふれる小野光子氏の「月夜の風景」の2作品が準賞として賞を分け合った。佳作は金森孝枝氏の「飴」に決まった。その発想がユニークなものであった。全体的には、作品の向上が窺(うかが)え、来期が楽しみなものになってきた。

(中原道夫)

俳句部門準賞

手毬唄

山本純子/山本菫(俳号)

探梅の帰りの無口はなやげる

靴下であがる茶房の立雛

鳥の胸しなひて桜また散らす

髪切つて麦秋の畦ひとまたぎ

螢火にゆび触れてより闇荒ぶ

灯点りて達者に替はる祭笛

行々子もう引つ込みのつかぬ声

いつよりの森番なるか蛇苺

※蛄を見る児こぶしを握りたる

瞬かぬ惑星あまた夜干梅

カステラの舌にざらつく法師蝉

勾玉に甘撚りの紐秋はじめ

号令で日暮れ来さうな大花野

秋蝶の谷戸深ければ朽葉色

穂芒に手招きさるる覚えなく

夕空は椋鳥の意のまま発車ベル

他愛なく夜に沈めり青蜜柑

水といふ水に青空冬雲雀

花柊香るは影にならぬため

長屋門聞きたきものに手毬唄

※は「虫」偏に「刺」

俳句部門準賞

風のひとひら

山崎加津子

風鈴になるまで風鈴聞いてをり

迷ふのはいつも書き出し葛の花

新涼やがんばらなくていい時計

秋が来るらしい二列に並びませう

天高し東京を出るはかりごと

ひとひらの風になりたる秋桜

雁渡し水輪のびのびのびのびと

風力3何になりたい赤とんぼ

踵からしつかり歩く水の秋

天気図に白いコスモス押し寄せる

水平線みえる城山いわし雲

海からの風のもつれを梳く芒

観音の思はれづかれ萩の風

水よりも淡き血縁秋黴雨

癖のあるひらがな釣瓶落しかな

列車来るまでは秋思と戯れり

さやうなら月を待たせてをりまして

星月夜足裏掬はれさうになる

少し手を伸ばして届く天の川

白桃の産毛さはさは砂時計

選評

突き抜けた作品を

 各審査員が予め..編を選出しておく。私が特に推奨したい作品は3編で、今回の選考は難航するだろうと審査会に臨んだ。その予感が見事に的中し、慎重に協議をした結果、準賞2名、佳作2名ということになった。

 山崎加津子さんの「風のひとひら」は、タイトルからして、おしゃれで感性の豊かさがにじみ出ている。作品は、独自の詩精神を発揮して、肩の凝らない柔軟かつ現代的なタッチで言語宇宙を構築している点に魅力がある。

 それに対して、山本純子さんの「手毬唄」は、堅実な手法で書かれており、全体的に破綻がなく、格調のある作品が目を引いた。慎ましやかな表現の中に、作者の強い意志が感じられ、俳句の奥の深さを示している。

 総じて、このようなコンクールでは、大きな減点がないのも審査する上で大切だが、突き抜けた作品をどれだけ盛り込めるかがキーポイントである。佳作の井上圭子さん、斯波広海さんの作品にも見るべきものがあった。

(山崎十生)

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