芸術部門

>笠原 将

見る人に想像させる

笠原 将(かさはら・まさし)氏(92)

写真家

 笠原さんが撮る「雪」は美しい雪国の風景とは一線を画す。くぼんでいたりこんもりと丸く盛り上がっていたり、雪そのものが自然の中で作り出すさまざまな形を撮り続けてきた。スノーシューを履いて真っさらな雪の中で見つけた「雪の形象」。中には女性のような曲線が浮かび上がる作品も。「自然のままの形から、見る人に想像させる写真を撮りたかった」

 秩父市(旧荒川村)生まれ、1952年に秩父セメント(現・太平洋セメント)に入社。兄の影響で64年に秩父写友会に入会し、秩父を代表する写真家・清水武甲(13~95年)に師事した。65年に国展に初入選、翌66年には同展で特選に選ばれるなど早くから才能を示し、その後も国内外の展覧会で数々の賞を受賞した。

 代表作の一つが、勤務していたセメント工場内を撮影した作品。工場は解体されたが、巨大モニュメントのような風道や、工場内の屋根や電灯に吹き付けた粉じんが描く模様など、独自の感性で切り取った。会社では仲間と写真部を結成し、作品の売り上げを寄付する慈善活動を50年にわたり続けた。

 未発表のものを含め、昔の秩父の風景や風物、人々の暮らしなども数多く撮りためてきた。「ありのままを残せるのが写真の強み。時がたつほどにその記録は役に立つ。地元の人たちが見て懐かしんでもらえるような機会もつくっていきたい」と話していた。

九段 理江

今を映す言葉を紡ぐ

九段 理江(くだん・りえ)氏(35)

作家

 さいたま市出身。2024年、「東京都同情塔」で第170回芥川賞に輝いた。受賞会見で「生成AIの文章を使った」と明かし、AI時代における現代文学の最先端を担う存在として注目を集める。県とさいたま市から昨年表彰されており、「埼玉から三つの賞を頂いた。本当にうれしく光栄」と喜ぶ。

 幼児期と、高校・大学時代、さいたま市に在住。小さい頃から文章を書くのが好きで、20代半ばで文芸誌への投稿を始めた。21年に文学界新人賞を受賞し、デビュー。主要な賞を次々と受け、勢いそのままに芥川賞を手にした。

 「東京~」は、寛容や同情をテーマにした美しい刑務所「シンパシータワートーキョー」の設計に挑む女性建築家が、葛藤しながら前進する姿を描く。物語には高性能シャワーや生成AIなど、現代を象徴するモチーフやテーマが登場。「小説と私の人生は接続している。今、この瞬間を書き留めたい」。現在、韓国やアメリカなど15カ国で翻訳され、海外でも読まれている。

 高校時代は市内の図書館を巡り、浴びるように本を読んだ。お気に入りは桜木図書館や北図書館で、CDやDVDもよく借りた。敬愛する三島由紀夫に影響を受け、デビューと同時に体を鍛えるように。「腹は割れてますよ」とにやり。「文章で表現することに興味を持ち続けている。これからも挑戦したい」。迷いなく、真っすぐ前を見据えた。

教育部門

高田 直芳

コロナ禍ICT活用

高田 直芳(たかだ・なおよし)氏(67)

元埼玉県教育委員会教育長

 新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた2020年4月、教育長に就任。子どもたちの学びを止めないための取り組みに奔走、前倒しでGIGAスクール構想を進めた。「コロナ禍を乗り越えられたのは、保護者の理解や教職員の取り組み、そしてなにより子どもたちが頑張ってくれたからこそ。彼らを代表して、私が受賞したものと思っている」と謙虚に受け止めた。

 コロナ対策で学校が一斉休校した際には、各家庭へのプリント配布などの施策を展開。また一方向だった教育活動を双方向から取り組めるように、端末や通信環境の整備を進めた。「課題は多かったが、ICT(情報通信技術)の活用が進んでできることが増えた。また、学校が閉じたことで、児童生徒も教職員も、当たり前の日常の大切さに気付いた」と振り返る。

 深谷市出身。県立熊谷高校から早稲田大学に進学し、卒業後は公立高校教諭に。県立吹上秋桜高校校長、県教育局の高校教育指導課長、県立浦和第一女子高校校長などを歴任した。教育長時代はコロナ対策のほか、特別支援学校の過密対策やヤングケアラー支援にも注力。現在は佐藤栄学園の常務理事を務め、私学教育振興にも尽力している。

 「教育は、未来を背負う子どもたちの成長を見守り、支える尊い仕事。教師は子どもたちにとって一番身近な職業でもあり、憧れを抱いてもらえる姿を見せてほしい」

農林部門

田端 講一

農業に精魂を込めて

田端 講一(たばた・こういち)氏(73)

県農業会議会長

 「歴代の受賞者はすごい先輩たちばかりなので、私でいいのかなという気がするけど、うれしい気持ち」などと謙遜しながら喜びを語る。

 旧児玉町(現本庄市)出身。実家は養蚕農家だったが、高校卒業後、パン職人を経て農業を始め、現在は約9㌶の農地を耕作し、米、ナス、タマネギ、レタス、ブロッコリー、キャベツ、カリフラワー、ブドウなどの作物を出荷する。新規就農者の研修生の受け入れ、外国人への技術指導、就農相談などにも積極的に取り組む。「自分も農業を始めた時には教えてもらった立場なので、自分で教えられることは何でも教えたい」と話す。

 2001年に地元の農業委員となり、合併後も委員として活躍して09年には委員会会長に就いた。農地の有効利用、適正管理などの地域に根差した適切な指導支援、農地集積のため農地所有者と担い手の間を積極的に取り持つなど尽力してきた。「耕作放棄地が増えてきているので、できる人にやってもらうのが一番」

 12年からは県農業会議の会長に就任。県担い手育成総合支援協議会会長、県耕作放棄地対策協議会会長なども務め、県内外の農政事情にも精通し、その経験と指導力で地域の農業振興に貢献してきた。現在も早朝から働いており、「毎日朝起きてから今日は何をするのかを考えているが、農業はやっぱり面白いし、生きがいになっている。これからも続けていきたい」と話した。

商工部門

池田 一義

困難乗り越えた6年

池田 一義(いけだ・かずよし)氏(68)

さいたま商工会議所前会頭

 会頭就任から2カ月後の2020年、新型コロナウイルス感染症が世界を襲った。未曽有(みぞう)の非常事態宣言の最中、県連会長も兼任し、事業者の状況把握や迅速支援の指揮に当たった。「この6年間はあっという間だったね」。人や物流が停滞し、サプライチェーンの甚大な影響やデジタル化の加速でこれまでの〝常識〟を覆す新たな対応の連続だった。

 長引く物価高対策では産官金労12団体による「価格転嫁の円滑化に関する協定」の実現を主導。取引の適正化を目指す県の「パートナーシップ構築宣言」では、自ら企業を回り理解を求めた。これらはその後、埼玉モデルとして全国に広がるきっかけとなる。

 大学卒業後、1981年に埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)に入社。秘書室長時代(当時はあさひ銀行)は2003年の金融危機「りそなショック」を経験。その後は14年から6年間、同行トップを務めた。商工会議所では海外販路拡大や文化交流にも尽力。昨年7月にドイツ・ニュルンベルク商議所と連携協定を締結。また、日米の友好親善とさいたま市の文化遺産「竜神伝説」の発信を目的に、米ハワイ州「ホノルル・フェスティバル」にも毎年参加している。

11月1日から名誉顧問に就任。「とにかく歩みを止めない。強い埼玉経済構築に向けて、これからもお役に立てれば」。埼玉で育ち、育てられた半生。「それが私にできる唯一の恩返しです」

社会文化部門

岡村 幸宣

「原爆の図」を未来へ

岡村 幸宣(おかむら・ゆきのり)氏(51)

原爆の図丸木美術館の学芸員

 原爆がもたらす人類の惨禍を描いた連作を展示する東松山市の「原爆の図丸木美術館」。その意義を掘り下げ、国内外に発信する名物学芸員だ。老朽化していた建物の改修にも取り組み、寄付の呼びかけや改修計画の推進に奮闘。「原爆の図」を未来へどうつなげるのか―。葛藤しながら、歩み続けている。

 大学時代の実習で同館を訪れたのが始まり。画家の丸木位里・俊夫妻が、自宅の隣に、手作りの美術館を建て、描いた作品を展示したと知る。「面白い。こんな場所は世界のどこにもない」と強く引かれ、2001年に学芸員に就任。

 その頃、丸木夫妻が相次いで亡くなったことで来場者は減少。同館は「破綻寸前」の危機に直面した。「人間の痛み」「核への警告」などを表現し、現代に重要な意味を持つ原爆の図の「新しい魅力を伝えよう」と、ブログや著書で発信を続けた。東日本大震災と原発事故を経て、夫妻は再び注目を集め、若手アーティストによる企画展や作品発表も盛んに。美術館の新たなファンも増えたという。

 丸木夫妻も1981年に埼玉文化賞(芸術部門)を受賞。「再び賞を頂いた。作家がいなくなっても、この場所が重要と認識された」と喜ぶ。同館は改修工事が始まり休館中で、1年半後のリニューアルオープンを目指す。被爆80年の節目の年に「多くの人に支えられこの場所がある。原爆の図の意味を考え続けたい」と語った。

スポーツ部門

水野 裕也

就任1年で優勝導く

水野 裕哉(みずの・ゆうや)氏(38)

T.T彩たま監督

 卓球のノジマTリーグ2024~25シーズンで監督としてT・T彩たまを率い、就任1年目にして初優勝に導いた。受賞については「素直にうれしい。僕ひとりの力じゃないけど、もらっていいのかな」と謙遜しつつも笑顔を浮かべた。

 岩手県出身。小学2年生より地域のクラブで卓球を始め、仙台育英高、明治大学を経て東京アートの実業団に加入した。2013年には全日本社会人選手権ダブルスで優勝するなど国内の第一線で活躍。現役引退後は明治大学と卓球スクール「TACTIVE」でコーチを務め、主に若手の育成に尽力。昨年4月から監督としてT・T彩たまの指揮を執っている。

 「選手は強いのがそろっていたが、勝ちきれない」。成績が低迷していたチームを立て直すために着手したのは、活気の向上だった。一体感を増したチームはシーズンを2位で走り切ると、プレーオフ決勝で1位の琉球を下し逆転優勝。「うれしいというより信じられなかった」と当時の心境を語った。

 今季のリーグ戦は7月に開幕し、王者として迎える初めてのシーズンの真っただ中。「連覇は簡単なことではないが、一戦一戦勝つことだけを考えてやっていく」と連覇に意欲を燃やす。今後のチームづくりについては「ファンやスポンサー、練習場など恵まれた環境がある。勝ちたい選手が集まるチームにしたい」と目標を掲げた。

スポーツ部門特別賞

岩井 明愛・岩井 千怜

息ぴったりの大活躍

岩井 明愛(いわい・あきえ)氏(23)
岩井 千怜(いわい・ちさと)氏(23)

ゴルフ

 双子らしく息ぴったりに「大変光栄でうれしく思う。埼玉だけにとどまらず世界でも、もっともっと活躍していきたい」と受賞の喜びと、さらなる飛躍を誓った。活躍の場を米国に移し1年目から輝かしい成績を残した。5月に妹・千怜が初優勝を果たすと、8月には姉・明愛も初の頂点に立った。米女子ゴルフツアーの姉妹制覇は史上4組目。双子としては初の快挙だった。

 ともに川島町出身、埼玉栄高出。2021年にプロ選手として始動すると、国内ツアーでは明愛が通算6勝、千怜が同8勝とトッププレイヤーへと駆け上がった。お互いの存在について明愛は「千怜がいい結果を出している時は自分もついていかないと、と相乗効果を実感している」と話し、千怜は「寂しい時はいつも隣で笑わせてくれて心の支えになってくれている」と良い刺激としている。

 生まれ育った郷土への思いについて「遠征の間に地元へ帰ると、緑がたくさんあって、気持ちが癒されて、生まれ育った大好きな場所」(明愛)「温かく接してくれる方が多く、帰ると気持ちが落ち着く」(千怜)と心のよりどころとしている。

 二人の最大目標は「(米ツアーの)メジャー大会で勝つ」と一致。明愛は「メジャー大会で優勝を目標にしているが、その時は千怜と一緒に最終日、最終組で戦えることも願っている」と大舞台での共演を望んだ。

園部 八奏

不動心保ち快挙達成

園部 八奏(そのべ・わかな)氏(17)

テニス

 1月に行われたテニスの全豪オープン・ジュニア女子シングルスで日本勢初優勝を成し遂げた。「普段と変わらずにプレーできた」と不動心を保ち、勝負を決めるとスタンドの家族に笑顔を見せた。四大大会のジュニアの女子シングルスを日本選手が制したのは、1969年ウィンブルドン選手権の沢松和子さん以来の快挙となった。

 さいたま市出身。兄の影響で4歳からテニスを始め、与野テニスクラブのジュニアクラスに入った。14歳からは男子の錦織圭と同じ米フロリダ州のIMGアカデミーで腕を磨く。身長174㌢のサウスポーで時速180㌔に迫るサーブと強烈なフォアハンドを武器に、今後の活躍に期待が膨らむ。

 10月にプロ転向を表明した。プロ初戦となった木下グループ・ジャパン・オープンでは1回戦で大坂なおみと対戦も完敗を喫した。その後の東レ・パンパシフィック・オープンでは「かなり緊張やプレッシャーがあったが、地元の応援が力になった」とうれしいプロ初勝利を挙げ、第一歩を踏み出した。

負けず嫌いで重圧のかかる場面でも攻め姿勢を貫く強心臓の持ち主。今後はプロの試合でランキングを上げて、目の前の試合を一つ一つ戦っていく。17歳のホープの挑戦はまだ始まったばかり。「世界で戦える、活躍できる選手になれるよう頑張る。攻撃的なプレーを見てほしい」と飛躍を誓った。