埼玉新聞

 

被爆者が議場で証言会 「戦争をしなければ原爆もない」 埼玉・越生町議会で訴える 広島の爆心地から1キロの家で被爆

  • 町議らを前に被爆体験について語る県原爆被害者協議会(しらさぎ会)の三松保則さん=2日午前、越生町役場議場

    町議らを前に被爆体験について語る県原爆被害者協議会(しらさぎ会)の三松保則さん=2日午前、越生町役場議場

  • 三松保則さん(左から2人目)の話を聴く町議ら=2日午前、越生町役場議場

    三松保則さん(左から2人目)の話を聴く町議ら=2日午前、越生町役場議場

  • 町議らを前に被爆体験について語る県原爆被害者協議会(しらさぎ会)の三松保則さん=2日午前、越生町役場議場
  • 三松保則さん(左から2人目)の話を聴く町議ら=2日午前、越生町役場議場

 県内在住の被爆者らで結成する県原爆被害者協議会(しらさぎ会)の「被爆者の声を聴く証言会」が2日、越生町議会の議場で行われた。三松保則会長(86)=小川町=が広島での被爆体験を語り、「核兵器が使われたら相手も撃ち返す。戦争は絶対にしてはいけない」と町議や執行部らに訴えた。同会によると、証言会が市町村議会の議場を会場にして開かれたのは初めてという。

 証言会は12月定例会初日の開会前に行われた。三松さんは町議と執行部の席を分けるスペースに設けられた席から、約30分にわたり話をした。

 三松さんは6歳(国民学校1年生)だった1945年4月に広島へ疎開。8月6日、爆心地から1キロの家で被爆した。「いきなり天井から床に向かって、稲妻のような光の雨がざーっと降ってきた。時間にして3~4秒だった」。三松さんは原爆投下時の様子を述懐する。

 猛烈な爆風で1階部分がつぶされた。三松さんは両親と共に気絶。炎が迫る中、しばらくして意識を取り戻すと、父が三松さんと母を助け出した。母は頭にけが、父は肩を脱臼。三松さんも頭や顔、手足が血だらけの状態だった。

 外に出ると、多くの家がなくなり、普段は見えない遠くの景色が見えた。家の前の松林は全て倒れ、根が浮き上がっていた。川のほとりでは「顔がスイカのように黒くまん丸に腫れ上がった人たちが『みずぅー』と言いながら来た」。人々は川の中州へ飛び降りていった。

 ほんのわずかな時間、黒い雨粒が落ち、シャツににじんだ。兵隊が野球のボールのようなおにぎりをバケツに入れ、1人に1個ずつ配っていたという。

 国民学校の校舎は臨時の医療現場になり、医師が治療に当たっていた。薬は「赤チン」だけだった。翌日に医師が来ないので尋ねると、亡くなったと言われた。「放射線の影響だった。当時は放射線のことも知らず、皆はガスのせいだと言っていた」と振り返る。

 8月15日にはラジオで玉音放送を聞いたが、ほとんど聞き取れなかった。「日本が負けたと知り、『もうこれで空襲はないのよ』と母が言った」という。

 「皆さんにお願いしたい」。証言の最後に三松さんは語りかけた。「戦争は絶対にしてはいけない。戦争をしなければ原爆もない。核兵器が一度使われると、相手が撃ち返す。死の灰に覆われてしまい、人類は滅亡する。動物も植物も全滅する」。戦争をしない努力をしてほしい、と加えた。

■しらさぎ会、県内全市町村に要望

 しらさぎ会は「被爆者の声を開かれた議会の場で伝えたい」として今年9月、証言会を議場で開催するよう県内全63市町村に要望。これまでに蕨市や加須市などの議会が、議場とは別の場所で証言会を実施した。議場での開催は越生町議会が初めてという。

 同町議会の木村正美議長(72)は「議会以外で議場を使用するのは初めてのことだと思う」と説明。「終戦80年の節目の年に核兵器の廃絶を求め行動している、しらさぎ会の依頼を受け、町議会全員の賛同を得て、その証言会を開催できたことを意義深いことと思っている」と語った。

 議場で三松さんの証言を聴いた新井康之町長(81)は、取材に「被爆者の声を聴き、戦争は大変なことで、起こしてはならないと思っている」と述べた。

 しらさぎ会の佐々木孝夫理事(65)は「前向きに検討してくれる議会が多かった。今年が被爆80年の節目であることや、被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が昨年ノーベル賞を受賞したことも大きいのではないか」と話している。

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