埼玉新聞

 

栄一帰郷「おかえり」 埼玉・深谷市役所の広場に銅像 旧渋沢邸「中の家」には孫の敬三の銅像も

  • お披露目された渋沢栄一の銅像「青淵渋沢栄一先生像」=11日午前10時35分ごろ、深谷市仲町の市役所本庁舎西側市民広場

    お披露目された渋沢栄一の銅像「青淵渋沢栄一先生像」=11日午前10時35分ごろ、深谷市仲町の市役所本庁舎西側市民広場

  • お披露目された渋沢敬三の銅像「祭魚洞渋沢敬三先生像」=11日午後2時40分ごろ、深谷市血洗島の旧渋沢邸「中の家」

    お披露目された渋沢敬三の銅像「祭魚洞渋沢敬三先生像」=11日午後2時40分ごろ、深谷市血洗島の旧渋沢邸「中の家」

  • お披露目された渋沢栄一の銅像「青淵渋沢栄一先生像」=11日午前10時35分ごろ、深谷市仲町の市役所本庁舎西側市民広場
  • お披露目された渋沢敬三の銅像「祭魚洞渋沢敬三先生像」=11日午後2時40分ごろ、深谷市血洗島の旧渋沢邸「中の家」

 深谷市出身の実業家渋沢栄一(1840~1931年)の祥月命日である11日、渋沢栄一の銅像お披露目式・第31回青淵(せいえん)忌献花式が市役所本庁舎西側市民広場、栄一の孫である敬三(1896~1963年)の銅像お披露目式が旧渋沢邸「中の家(なかんち)」でそれぞれ行われ、青森県三沢市の三沢奥入瀬(おいらせ)観光開発から寄付された銅像が栄一の古里に帰郷した。

 敬三は栄一の長男である篤二の長男として東京・深川に生まれた。17歳の時に栄一の後継者となり、実業界を引退して社会公共事業に尽力していた栄一に随伴し、事業を継承。栄一の古里である血洗島にも獅子舞が奉納される例大祭に合わせ、何度も訪れている。

 栄一と青森県との縁は「三本木渋沢農場」(同県十和田市)の経営に携わったことが契機。敬三は渋沢農場を引き継いだ後に農地改革の影響で閉鎖することとし、事業清算を栄一の書生で敬三の秘書だった杉本行雄(1914~2003年)に任せた。

 杉本は観光に携わり、現在の三沢市古間木で温泉掘削に成功し、古牧温泉と命名。東京・三田綱町の旧渋沢邸の払い下げを大蔵省に陳情し続け、古牧温泉の広大な敷地に旧渋沢邸を移築し、渋沢栄一像と渋沢敬三像、渋沢神社を建立して渋沢公園・祭魚洞(さいぎょどう)庭園も整備した。

 栄一像は高さ約7・4メートルで、「東洋のロダン」と称された彫刻家朝倉文夫(1883~1964年)が制作。栄一の三回忌に合わせ1933年に制作され、現在も日本銀行本店にほど近い常盤橋公園に立つ青淵渋沢栄一像と同じ姿だ。敬三像は高さ約4・9メートルで、東京美術学校で朝倉文夫に学んだ彫刻家西常雄(1911~2011年)が制作。杉本の依頼で95年に制作されたオリジナル作品で、還暦ごろの敬三の姿という。

 市役所で行われたお披露目式で、小島進市長は「お帰りなさいという感じで、念願がかなって本当にうれしい。市民を見守ってもらえれば」と語った。杉本の四男である成城大学学長の杉本義行さん(70)は「銅像があるべきふさわしい場所に戻ってきた。銅像が栄一と敬三の精神を語っていく」と話した。栄一の銅像を除幕後、献花を行い、市立八基小学校の4、5年生が校歌などを披露した。旧渋沢邸「中の家」でも敬三の銅像がお披露目された。

 移設費用は約3400万円で、深谷ライオンズクラブや清和綜合建物(東京都)が一部を賄ったほか、企業版ふるさと納税による寄付、まちづくり振興基金を活用した。

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