気球の紙すき168戸判明 太平洋戦争で日本軍が使った「風船爆弾」 埼玉・小川の郷土史家、内田さんが冊子発行 「二度と戦争に進まないために執筆」
小川町在住の郷土史家・内田康男さん(69)が、太平洋戦争で日本軍が使った紙製気球「ふ号兵器(風船爆弾)」に使われた気球紙と小川和紙についてまとめた「風船爆弾と小川和紙業」(A5判、121ページ)を発行した。気球紙は小川で開発された。詳細不明だった気球紙をすいていた戸数が168、従業員数が1215人と判明。内田さんは、なぜ戦争とは無縁の特産の和紙が兵器に利用されたのか、「(この歴史を)本書を通して後世へ伝えたい。二度と戦争に進まないために執筆した」と話している。
古くから「和紙の産地」として知られる小川地域。風船爆弾に使われた気球紙は1933(昭和8)年ごろ、小川で開発され、45(同20)年まで、生産が続いた。44(同19)年以降、全国の和紙産地でもすかれるようになったが、「小川和紙業は全国で一番長く気球紙に関わった」という。
気球紙は小川を含む各地で張り合わされ、大都市の劇場などで球体に組み立てられ、軍部に納入された。太平洋戦争の末期、「ふ号兵器(風船爆弾)」は太平洋沿岸から約9300個が飛ばされ、偏西風に乗って約900から千個が米国西海岸を中心に着弾し犠牲者も出たとされる。
気球紙は手が透けて見えるほど薄い特別なものだった。193センチの大判と67センチの小判があり、大小の和紙をこんにゃくのりで5枚張り合わせ、厚さ1ミリ、長さ2メートルの気球紙にした。これを10メートルの風船に600枚を張り付けた。
内田さんは98年ごろから小川の気球紙に関するさまざまな調査に取り組んできた。その過程で、気球紙をすいたり、張り合わせ作業に関わった約100人から聞き取りを行った。4年前には県小川和紙工業協同組合の古い資料を調査、気球紙に関するものは残されていないとされていたが、これまで不明だった気球紙をすいていた戸数が168戸、従業員数が1215人だったことや、和紙の原料となる楮(こうぞ)加工の強制依頼があり、住民や学徒が動員され、地域を挙げて増産に取り組んだ状況などさまざまな資料を把握。今回、戦後80年を機会に、集大成として、関係者や各団体の協力を得て、同書をまとめた。
当時の人たちが、すいている和紙が風船爆弾に使われることを知っていたのかどうか、内田さんは「(資料から)気球紙関係団体の上層部は知っていたことは確実だが、一般の人もうわさとしては知っていた人が多かったのでは」と推測。「二度と戦争へ進まないために風船爆弾と小川和紙業の関わりを通して(平和を)訴えていきたい」
冊子は800円(送料別)で実費頒布している。問い合わせは内田さん(電話0493・73・1559)へ。










