埼玉新聞

 

「ようかんを食べたい」とつぶやいた仲間、翌朝亡くなる…空腹、寒さ、重労働で多くの日本人が死亡したシベリア抑留 埼玉・越谷にある全国強制抑留者協会県支部 遺志を次世代に、地域から平和求める

  • シベリア抑留体験者の遺志を引き継ぐ全国強制抑留者協会県支部の(左から)前川佳也さん、加藤修さん、乙訓ますみさん=越谷市の南越谷地区センター

    シベリア抑留体験者の遺志を引き継ぐ全国強制抑留者協会県支部の(左から)前川佳也さん、加藤修さん、乙訓ますみさん=越谷市の南越谷地区センター

  • シベリア抑留体験者の遺志を引き継ぐ全国強制抑留者協会県支部の(左から)前川佳也さん、加藤修さん、乙訓ますみさん=越谷市の南越谷地区センター

 シベリア抑留者の悲惨な体験を語り継ごうと、全国強制抑留者協会県支部(越谷市)の前川佳也支部長(91)、加藤修副支部長(76)、乙訓(おとくに)ますみ事務局長(74)が取り組みを進めている。越谷市南越谷地域で四半世紀にわたり、抑留体験者らと活動を続け、県支部を2021年に設立した。3人は抑留体験者の遺志を継ぎ、「二度とこのような悲劇を繰り返さないよう訴え続けていきたい」と話している。

 1945年8月の終戦後、ソ連軍は旧満州(中国東北部)で、旧日本軍兵士らをシベリアやモンゴルに連行。極寒の地で十分な食料を与えず重労働を強いた。厚生労働省によると、シベリアやモンゴルに抑留された約57万5千人のうち、約5万5千人が抑留中に死亡したと推計される。

■自治会の活動が契機

 越谷市南越谷地区の自治会で知り合ったメンバーが98年ごろから、シベリア抑留の歴史を伝えている。きっかけはコミュニティー推進協議会のメンバーだった饗庭(あえば)秀男さんと座間三郎さん(いずれも故人)。2人はシベリア抑留の体験者で、越谷の自治会活動で偶然知り合った仲だった。

 東京都出身の前川さんは戦時中、疎開先の三重県で空襲被害を受けた。戦後は東京にいったん帰った後、越谷に移住。自治会に参加して、ひと世代上の饗庭さんらに声をかけられ参加した。シベリア抑留について「当時はよく分からなかった。手伝って、と言われ軽い気持ちで始めた。信頼関係があったから」と語る。

 饗庭さんは全国強制抑留者協会(東京都)の事務局長を務め、地元越谷でも体験を伝える取り組みをしていた。前川さんらによると「口数は多い方ではなかった」。座間さんも当初は抑留体験について、口をつぐんでいたという。

 2012年に饗庭さんが死去。座間さんが抑留体験を主体的に話し始めた。「乙ちゃん、どうしゃべっていいか分からない」。乙訓さんは座間さんから相談を受けた。

 乙訓さんは、満州から引き揚げた父がシベリア抑留を免れ生き残ったことを、父の死後に知った。「同じ日本人が悲しい思いをした。父の遺言」と思い、座間さんを支えた。

 座間さんは航空通信部隊に入隊し満州の寧安で武装解除を受けた。シベリアのコムソモリスクで約2年にわたり、収容所生活を送った。生き残るため残飯やサケの骨を栄養分として補給。汗が染み込んだ自分のベルトを煮出して塩分を取った。空腹をしのぐため、ジャガイモの芽を食べ、あえて腹痛を起こしたという。

 空腹、寒さ、重労働で多くの日本人が死んだ。座間さんは生前、ようかんが食べられなかった。抑留中に「ようかんを食べたい」とつぶやいた仲間が翌朝死んだためという。

■慰霊碑建立を目標に

 座間さんは昨年12月、99歳で死去した。同支部は現在、シベリア抑留の体験者が不在のまま、活動を広げようとしている。戦後80年の今年は、越谷で毎年続けてきた展示会をさいたま市で初めて開催した。県内でシベリア抑留者の慰霊碑を建立することを新たな目標に掲げている。

 展示の内容も年々工夫を重ねている。製品開発の仕事に長年携わってきた加藤さんは、舞鶴引揚記念館(京都府)を訪れ、シベリア抑留の歴史を学んだ。「自分のできる範囲でお手伝いを」と特技を生かし、収容所生活を再現するレプリカの製作に取り組む。

 南越谷地域の自治会活動で出会った前川さん、加藤さん、乙訓さんは、それぞれ交錯する思いを胸に活動を引き継いでいる。「経験者はいないがシベリア抑留の体験を伝えていく。平和を求めて人のために何かを行う地域のボランティア」との思いだ。

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