埼玉新聞

 

これが話に聞いた照明弾…熊谷空襲を書き残した手記見つかる どのような状況か記録した初めての資料 学芸員、新資料が出てくるケース「とても珍しい」 熊谷図書館の企画展で初公開

  • 母の手記を公開した思いを話す竹井雅彦さん

    母の手記を公開した思いを話す竹井雅彦さん=さいたま市内

  • 企画展で展示されている竹井富美子さんの手記

    企画展で展示されている竹井富美子さんの手記=熊谷市桜木町の市立熊谷図書館

  • 母の手記を公開した思いを話す竹井雅彦さん
  • 企画展で展示されている竹井富美子さんの手記

 市立熊谷図書館で開催中の企画展「熊谷空襲の記憶と平和の継承展」で、新たな資料が初めて公開されている。熊谷市の名勝「星溪園(せいけいえん)」に空襲当時住んでいた竹井富美子さん(2003年に85歳で死去)が、書き残した手記だ。今年1月、存在が明らかになった。

■実家の整理で発見

 かつて、星川の源となる湧き水が出ていた同市鎌倉町にある回遊式庭園は、熊谷宿の本陣竹井家の14代当主で、初代県会議長を務めた澹如(たんじょ)が、慶応年間から明治初年にかけて、別邸を設けるなどして整備した。太平洋戦争当時、ここには16代当主の邦彦さん(1987年に72歳で死去)と妻の富美子さん一家が居住。空襲では、此君亭(しくんてい)が焼失した。星溪園は50年に、市が譲り受けている。

 手記はさいたま市に住む三男の雅彦さん(78)が、熊谷市本石にある実家の整理をしていて見つけた。雅彦さんは「手書きなので読むのが大変だったけれど、解読してみると空襲当時の様子が記録されていた」と振り返る。

■星川の犠牲者に心痛め

 メモ書きの手記は折り込みチラシの裏側のような紙にしたためられており、9枚にわたっていた。2枚目には、「その夜は入浴をした為に珍らしく着替えて寝ていたので、空襲警報が鳴ってから手間どってしまった。〈中略〉台所のガラスが晝間(昼間)のように明るかった。これが話に聞いた照明弾だととっさに思った」との記述がある。

 担当学芸員の大井教寛さん(51)は「当日に空襲警報が鳴ったかどうかは見解が分かれていたが、鳴ったことがはっきりしてきた」と指摘。富美子さんが書き留めた時期は、空襲から28年後の73年ごろとみられるという。大井さんは「避難の様子も具体的。空襲の時、星溪園がどのような状況だったのかを記録した初めての資料で、貴重なもの」と価値を認める。

 4枚目には、「昭憲皇太后、秩父宮(雍仁親王)のお泊りにもなったという此君亭はそのまま火に包まれ」と描写。8、9枚目では、「この池を水源としている星川は、いつもカンガイ(潅漑)などで人の役に立っていたのにこんなことになるなどとは―」と、星川で多くの犠牲者が出たことに心を痛めていた。

■復興担った先人に敬意

 終戦の翌年に生まれた雅彦さんは、物心がついた頃には市内で空襲の爪痕はあまり見られなかったという。「市民一丸となった働きがあったから、熊谷の復興は早かったのではないか。厳しい時代にあっても後ろを振り返らず、前進していった先人たちは力強い。そして、将来の防災も意識した美しい街づくりを成し遂げた人々の努力に感謝している」と敬意を示す。

 雅彦さんは当初、メモを世に出すことに迷いがあった。だが、大井さんに説得され、公開を認める気持ちになったという。大井さんは「体験者がどんどんいなくなっていき、戦跡も減り続ける時代にあって、新しい資料が出てくるケースはとても珍しい」と意義を語る。雅彦さんは「既に兄たちは亡くなってしまった。幼少期とはいえ、星溪園に最後まで住んでいた者として、(手記を)伝える責任がある」と心境を口にした。

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