80年たっても忘れた日は一日もない 広島で被爆した服部道子さん 語り続けることは私の宿命 戦争、核兵器「許さない」
1945年8月6日に当時16歳で広島県で被爆した服部道子さん(96)=蕨市=は、戦後から80年が経過した現在も語り部活動を通して、核兵器と戦争の恐ろしさを訴え続ける。昨年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞した一方、政治家が核保有を容認する趣旨の発言をして波紋が広がっている。服部さんは被爆者として、「80年たっても忘れた日は一日もない。語り続けることは私の宿命だ」と力を込める。
■「戦争って何だろう」
服部さんは45年3月に女学校を繰り上げで卒業し、広島の軍医部で看護師として勤務していた。原爆が投下された8月6日午前8時15分、爆心地から約3キロ離れた場所で勤務中に被爆。目の前が青白い雷のような閃光(せんこう)に包まれ、「さようなら」と心の中で叫びながら地面に伏せ、気を失った。意識が戻った瞬間、眼前には火の海や黒煙が渦巻き、がれきが散乱。ぼうぜんとしたのと同時に自分がけがをしていないことを知った。
原爆は一瞬にして無数の人の命を奪った。「多くの人の髪の毛は逆立って、顔が風船みたいに膨れ上がり、皮が垂れ下がっていた」。泣き叫んだり助けを呼ぶ声も聞こえた。看護師として救護しなくてはいけないと思ったが、「最初怖くなって震えて逃げて回ってしまった」と振り返る。
救護所に戻ってからは三日三晩治療に当たった。薬や包帯どころか、水もほとんどない中で、「死にそうな人は手当てするな」と指示され、何人もの人が亡くなっていくのを見て悔しさを募らせた。「どうしてこんなことになったの。戦争ってなんだろう」と、自分に問うても分からなかった。
■差別と偏見
終戦後間もなく、広島を離れた。親戚を頼って各地を転々として原爆の話をしたが受け入れられなかった。住まいもなく、道端に落ちていたリンゴや草、渋柿を食べたり物乞いもした。福島で教師もしたが、原爆症による下痢や嘔吐(おうと)、慢性的な倦怠(けんたい)感で周囲から「怠け者」と言われた。
その後、東京へ移って国に惨状を訴えたが相手にされなかった。「自分を受け入れてくれる場所はどこにもない」。思い詰めて、自殺を考え海岸に立った。「全て楽になれる」と飛び込もうとしたが、偶然居合わせた人に説得されて思いとどまることができた。「みんな苦しい思いをして亡くなった。ずっと心の中で『生き残って申し訳ない』と繰り返し唱えてきたが、これからは亡くなった人の分まで少しでも長く生きなくてはならない」
■分断が加速する中で
被爆者の中には体験がトラウマになって語れない人もいる。服部さんにも、語り部の活動を始める前はためらいがあったという。活動する中で批判されたり、心ない言葉を言われたこともあった。それでも語ることをやめず、求められれば海外にも出向いた。
語ることで継承してきた被爆者の活動が実を結び、昨年には被団協がノーベル平和賞を受賞した。しかし、日本政府はいまだに核兵器禁止条約の締約国会議へのオブザーバー参加さえ見送る姿勢を崩していない。今夏の参院選では、選挙戦当時の候補者が安全保障政策の観点で「核武装が最も安上がり」などと発言。世界に目を向けても戦争は絶えない。
終戦から80年も経過したにもかかわらず、「歴史は繰り返し改善されていない。怒りと悲しみで胸がいっぱいになる」と涙を浮かべる。宗教やイデオロギーの違いで分断が大きくなり、核の存在感も増していると感じる。「多くの人を痛みや苦しみの中に閉じ込めて殺した戦争を、核兵器を私は許さない。二度とこんなことが起こらないように訴え続けたい」










