埼玉新聞

 

古墳時代につくられた墓の地下には飛行機の軍需工場の跡 国史跡の吉見百穴 空襲避けて部品が製造出来るよう大宮から移転計画 本格的な製造の前に終戦迎える/埼玉県内に残る戦争遺跡(3)

  • 現在も立ち入りが制限されている軍需工場の跡地=吉見町北吉見

    現在も立ち入りが制限されている軍需工場の跡地=吉見町北吉見

  • 百穴の前で軍需工場の貴重さを語る学芸員の太田賢一さん

    百穴の前で軍需工場の貴重さを語る学芸員の太田賢一さん

  • 現在も立ち入りが制限されている軍需工場の跡地=吉見町北吉見
  • 百穴の前で軍需工場の貴重さを語る学芸員の太田賢一さん

 今年は戦後80年を迎える節目の年。戦争を実際に経験していた世代が少なくなり、当時の記憶を次世代に伝えていくことが課題になりつつあるが、県内には軍需工場、飛行場、陸軍学校分教場など戦争に関係する遺跡が点在している。県内に残る施設はどのような役割を果たしたのか、関係者たちの話を交えながら紹介していく。

■巨大な洞窟、碁盤の目

 丘陵の斜面に開いた複数の穴―。古墳時代末期(6世紀末~7世紀後半)に造られた横穴墓で、現在219基が確認されている。吉見百穴は1923(大正12)年、国の史跡に指定された。その地下に、戦時使われた飛行機の軍需工場跡があることを知る人は少ない。現在は崩落の危険性があり立ち入り制限されているが、百穴一帯も含め、後世に残すべき遺跡として保全活動が続いている。

 山の地上付近に掘られた軍需工場の広さは横幅約190メートル、奥行き約95メートル。工場に入るためのトンネルは馬蹄(ばてい)形で幅4メートル、高さ2・2メートル以上ある。7~8本あるトンネルは中で碁盤の目のように交わっている。

 軍需工場として使われたのは44年末から45年初めとされる。海軍向けのエンジン部品を製造していた。当時は東京周辺で空襲が相次ぎ、被害を受けた飛行機工場もあった。大宮市(現さいたま市)にあった中島飛行機大宮製作所への影響が懸念されたことから、空襲を避けながら部品製造が可能な吉見百穴周辺へ軍需工場の移転が計画された。

 軍需工場の工事は「松山城跡下」「百穴下」「百穴の北側」「岩粉山近辺」の4カ所で進められた。しかし実際に工場が稼働したのは現存する「百穴下」の1カ所のみ。本格的な部品製造に移る前に終戦となった。

 工場に勤務していた多くは朝鮮人労働者で、3千人以上が働いていた。当時は朝鮮半島から日本に訪れ、生活を続けていた。今でも東松山や吉見に、その子孫が住んでいる。

 終戦後、工場に関する資料は捨てられ、記録が残らないまま時が過ぎた。そんな記録を残そうと奔走したのが、郷土史家の故長沢士朗氏。70~80年代当時に働いていた土木技師や工員らに話を聞き、工事の手法や工員の働き方などを吉見町の広報誌などに残した。

 軍需工場内は数年前に崩落があり、現在は入り口付近までしか立ち入ることはできない。同町は工場跡の公開も考えており、百穴も含めた全体の整備事業を進めている。昨年度に百穴と軍需工場内の写真測量を行い、今年度は地質や植生などを調べる予定だ。

 同町の学芸員太田賢一さん(56)は「工場内は風化が激しい。修復をしすぎると本来の姿ではなくなるため、風化とのバランスが難しい」と苦慮する。温暖化など近年の気候変動も、保全活動の障壁になっているという。

 終戦から80年がたち、工場が稼働していた当時を知る人はほとんどいなくなった。だからこそ真実を伝え、残す必要がある。太田さんはこう力を込める。「ここに軍需工場があったことを後世に伝えていかなければならない」

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