「知らなかった」…素通りする市民 市役所にある敷石は広島で原爆の熱線浴びた御影石 約40年前に広島市から所沢市が譲り受ける 毎年8月には有志団体による「市民平和記念式」/埼玉県内に残る戦争遺跡(2)
今年は戦後80年を迎える節目の年。戦争を実際に経験していた世代が少なくなり、当時の記憶を次世代に伝えていくことが課題になりつつあるが、県内には軍需工場、飛行場、陸軍学校分教場など戦争に関係する遺跡が点在している。県内に残る施設はどのような役割を果たしたのか、関係者たちの話を交えながら紹介していく。
■核廃絶へ思いを刻む
1945年8月6日に原爆の熱線を浴びた3枚の御影石が、所沢市庁舎前に置かれている。広島市旧庁舎前の敷石で、41年前に広島市から贈られた。台座には「No more Hiroshima(ノー・モア・ヒロシマ)」の文字が刻まれる。正面入り口に設置されたが、足を止める人は少ない。被爆石があることを「知らなかった」という市民も多い。現在は市民主導で、核廃絶への思いを若い世代に伝える活動が続いている。
当時の資料などによると、被爆石は約70センチ四方の1枚と、約60センチ四方2枚の計3枚。所沢市制施行35周年を記念した講演会に、広島平和記念資料館長を講師で招いたことをきっかけに贈られた。86年の新庁舎の竣工(しゅんこう)に伴い、現庁舎の西口玄関前に設置された。市民平和記念式を開催する実行委員の大山茂樹さん(74)は、「素通りする人が多く、敷石があることを知らないという市民がほとんど」と課題を挙げる。
広島市によると、爆心地から約1キロの場所にあった旧庁舎の前庭の敷石などを、核兵器の廃絶や世界の恒久平和のため、希望者に譲与しているという。これまでの譲与件数は国内外101件で、庁舎の建築部材、平和祈念の石碑、平和学習の教材などとして活用される。埼玉県内では所沢市庁舎前を含め、本庄市役所前、県平和資料館(東松山市)、県立小鹿野高校(小鹿野町)の計4カ所にある。
被爆石が贈られた当時の武藤保之助所沢市長は、市議会で「解体中の広島市役所庁舎の敷石を譲り受けることができた」と説明し「平和教育、平和学習の教材とするため」と設置を決めた。所沢市では85年8月6日に、市長や市議代表ら18人が広島平和記念式典に参加。現在も中高生を市民代表として派遣し、参加を続けている。
両市が交流を深める一方、被爆石の設置直後は式典などの対応は行われなかった。しかし、市民の自主的な献花や市への要望があり、2004年からは毎年8月に所沢市職員が献花と献水を実施。8月6日は有志団体による「市民平和記念式」が開かれ、昨年は約100人が参加した。説明看板も設置され、被爆した当時の旧市役所の様子を伝える。
市民平和記念式は昨年で15回目。大山さんは、「子どもの平和教育のために使うことで、次世代への後継になるのでは」と話す。「核兵器のない世界が実現できるのは、残念ながら次の世代になってしまうだろう。敷石をきっかけに若い世代とも意見を交わして、核兵器の問題をどのようにしていくのか、考える機会にしたい」










