おらが町の野球部 鷲宮高校物語

2. 部の骨格

学校引っ張る「主将」

 

野球部には厳しい練習の中でも常に明るさがあった=1981年、鷲宮町営グラウンド(ナカダ写真提供)

 「野球部は常に学校のリーダーたれ」。そんな伝統の骨格は一九七八年の創部当初につくられたものだった。

 その精神を注入したのは初代監督の宮内義夫(故人)と二代目監督の石井康二(58)。二人とも高校スポーツ界でも今ではめっきり減った熱血漢だ。

 石井は八二年、宮内の遺志を受け継ぎ監督に就任。朝六時半から夜九時すぎまでクラスと部の指導に当たり、休日も労を惜しまず野球部の強化に時間を費やした。

 石井は「まず学校があり、次に授業、そしてクラスがあり、その後に野球がある」と常々、野球部員に言い聞かせた。部員である前に立派な高校生であることを求めた。そして、どこにいても「鷲宮高校野球部」の看板を背負っていることを強く意識させたという。

◇  ◇  ◇

 八一年に夏の埼玉大会で8強入りした時の主将で現在、豊岡高校の監督を務める野中祐之(42)は、主将になる際、石井から「運動部全体のキャプテンだ。勉強も一番でないと駄目」と強く諭された。

 野中は約束通り、野球部を引っ張り、三年間学年トップの成績で卒業。「勝っても浮かれず、野球バカにはなるなと常日ごろ言われた。石井先生は厳しかったけど、つらい思いを打ち明けられる存在。だから、きつくても信じてついていけたし、あのころの教えは今でも生きています」

 野球部に触発されるように卓球、ソフトボール部なども県大会で上位に顔を出すようになっていった。野中の同級生で当時、バレーボール部に所属していた鈴木(旧姓中野)操(42)は「私たちも野球部の頑張りを見ていたので、いいかげんな気持ちで部活はできなかった。負けられないと思っていた」と述懐する。

◇  ◇  ◇

 野球部は周囲の期待に応えるように、八二年の夏の埼玉大会でも二年連続でベスト8入り。その活躍は校内にとどまらず町内にも波及していく。

 地元で酒屋を経営する鈴木政司(72)は野球部の初代後援会長を八年間務めた。年を重ねるたびに野球部の話題が町内に広がっていくのを実感する。「野球部が強くなるのと並行して、学校も良くなっていったね。前は土日に学校にいたのは野球部だけだったが、だんだん部活動のために他の生徒も学校に来るようになった」という。

 一つのクラブの頑張りがほかの生徒の意識を変え、町民の視線をも引き付けていく。野球部はその後も県大会で安定した成績を残す。

 地道な積み重ねが花開くのは、創部から十七年後のことである。

=文中敬称略=

(2006年7月4日付掲載)

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