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熱きあのとき
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▽5 猛練習が今の下地に
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ハンドボール・浦和学院 豊田 賢治選手
「とにかく練習が厳しかった」と苦笑交じりに高校時代を語るのは、男子ハンドボール日本代表の豊田賢治選手。「でも、あのころの経験が今に生きている」と懐かしそうに振り返った。 春日部中野中から県内屈指の強豪・浦和学院高に入学。一年時からメンバーに定着し、二年時の高校総体(一九九六年)では準優勝に貢献した。「準決勝で優勝候補の大分電波(現大分国際情報)高に勝ったことは自信になった。しかし、決勝では横浜商工(現横浜創学館)高に力負け。全然だめだった」と頂点を逃した悔しさを口にする。 雪辱を期して臨んだ翌年の高校総体では優勝候補に推されながら、初戦の2回戦で瓊浦(長崎)高にまさかの敗戦。「高校の大会で一番はインターハイ。どうしても勝ちたかった」。悔しかったのだろう。この時ばかりは、豊田選手の口数も減った。 「努力」という言葉が似合う選手だ。現在は身長一八一センチだが、高校入学時は一五三センチ、三年時も一七〇センチほどだった。「僕は当時の同級生と比べてもレベルは高くなかった」。それでも負けん気の強さは人一倍だった。 毎日、自宅の春日部から片道四十五分かけて自転車通学。「今思えばあれで体力、筋力も養えた」。日々の練習も半端ではなかった。朝練習から始まり、放課後の練習は夜の十時すぎになることも。内容も基礎を徹底的に指摘され、当時は疑問に感じることもあった。しかし「それが今の下地になっている。恩師の岩本明先生には感謝しています」。 豊田選手は、今年四月に大崎電気の契約を打ち切り、今夏から活動の場を欧州に移す。北京五輪への道が閉ざされた時、引退も考えた。だが、かねてからあった海外でプレーしたいという夢を、その時あらためて意識した。「今、海外に行かなければ、年をとって絶対後悔すると思った」。ハンドボールの本場・スペインかドイツへの移籍を希望している。 後輩たちが埼玉で熱戦を繰り広げるころ、豊田選手の新たな挑戦が始まる。「高校生の必死なプレーは周囲に感動を与える。地元というプレッシャーを気にせず、伸び伸びとプレーしてほしい」。新天地に羽ばたく自身と重ねるよう、後輩たちにエールを送った。 (2008.07.06付掲載) |
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