2018年2月21日(水)

金子兜太さん死去 皆野出身98歳、戦後の俳壇けん引 俳句の根底に秩父の記憶と戦争体験、平和へ強い思い

産土(うぶすな)と呼ぶ故郷・秩父を語る金子兜太さん=2011年4月18日、熊谷市の自宅

 戦後日本の俳句をリードしてきた俳人で熊谷市在住の金子兜太(かねこ・とうた)さんが20日午後11時47分、急性呼吸促迫症候群のため同市の病院で死去した。98歳。皆野町出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は長男の真土(まつち)さん。

 秩父音頭の生みの親として知られる俳人で医師の金子伊昔紅(いせきこう)の長男として生まれ、皆野町で少年・青年期を送った。熊谷中(現熊谷高)から旧制水戸高に進み、俳句を始める。東京帝国大学(現東京大学)在学時に加藤秋邨に師事。1943年に日本銀行に入行。3日間勤務したのち、海軍主計中尉となりミクロネシアのトラック島へと赴任した。

 戦後は日本銀行の福島や神戸など地方支店で勤務しながら、地元の俳人らと積極的に交流。花鳥諷詠を詠む伝統的俳句と一線を画し、社会や人間を詠む前衛俳句運動の旗手として活躍し、その理論的支柱となった。62年に俳誌「海程」を創刊し、のちに主宰となる。現代俳句協会会長、同名誉会長などを歴任。2002年に蛇笏(だこつ)賞、08年文化功労者。日本芸術院会員。

 その俳句の根底に流れるのは「産土(うぶすな)」と呼ぶ故郷・秩父への思い。少年時代、父の句会に集まる「知的野生の男たち」に引かれた。

 〈おおかみに蛍が一つ付いていた〉

 〈曼珠沙華どれも腹出し秩父の子〉

 秩父での記憶はその作品世界の原風景となった。

 もう一つ、大きな影響を与えたのが南方での戦争体験。軍属の民間人を指揮して要塞(ようさい)構築工事などの任に当たったが、深刻な食糧難や米軍の攻撃で仲間たちを失っていく。

 〈水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る〉

 トラック島を去るとき、非業の死を遂げた仲間たちに手向けた句は代表作となった。

 晩年はこうした戦争体験を踏まえ、平和のためにメッセージを精力的に発信。15年の安全保障関連法の成立時は、抗議集会などで掲げられた「アベ政治を許さない」という言葉を書いた。

 主な句集に「少年」「両神」、著書に「小林一茶」などがある。熊谷市名誉市民。皆野町名誉町民。1978年に埼玉文化賞芸術部門を受賞。70年から埼玉新聞の埼玉俳壇の選者も務めていた。

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