埼玉新聞ロゴ お問い合わせ

2018年度彩の国・埼玉りそな銀行埼玉文学賞

2018.12.3

「彩の国・埼玉りそな銀行 第49回埼玉文学賞」の受賞作品が決定しました。「小説部門」「詩部門」「短歌部門」「俳句部門」の各正賞を紹介します。

埼玉文学賞とは

埼玉新聞社創刊25周年を記念して制定した「埼玉文学賞」は文学を志す人たちを長年にわたり支援してきました。今年で49回。毎年幅広い年代から作品を集め、県内外から注目される文学コンクールです。小説、詩、短歌、俳句の4部門。埼玉りそな銀行から特別協賛をいただいております。

第49回埼玉文学賞審査員

小説部門

  • 高橋千劔破
  • 新津きよみ
  • 三田完

詩部門

  • 木坂涼
  • 北畑光男
  • 中原道夫

短歌部門

  • 沖ななも
  • 金子貞雄
  • 杜澤光一郎

俳句部門

  • 鎌倉佐弓
  • 佐怒賀直美
  • 山ア十生
Placeholder image今年の審査風景から
小説部門正賞

見張り塔

絵尾奈未乃

所沢駅から程近い路地にその風変わりな店はあった。
ガラスのはめ込まれた引き戸に紺ののれん。一見、何の変哲もない小料理屋か居酒屋のように見える。
しかし、どこにも店の名は出ていない。看板も提灯もなく、のれんにさえ何も書かれていない。
ただ、入り口横のコンクリート壁にペンキで絵が描かれている。
脚立か海水浴場の監視塔にも似た背の高い踏み台のようなもの。四本の足の上に平たい台が乗っている。それとも大型の風呂椅子なのか。店の表に書かれているのは、その風変わりな絵だけだった。
日がすっかり暮れた駅前の商店街プロペ通り。アーケードをくぐると、通り沿いの店からあふれる照明がまぶしい。新藤浩一はその光を避けるように、パチンコ屋と美容院に挟まれた通り沿いの路地に入り込んだ。
大通りから一歩横に入っただけなのに、表通りのにぎやかさが嘘のように路地は落ち着いていた。街灯もなく薄暗い。午後八時を過ぎたばかりなのに、既に店終いしたらしいラーメン屋があった。開け放たれた入り口から、店主らしい老人がテーブルの上で売り上げを勘定しているのが見える。
店はその隣にあった。
引き戸にはめ込まれたガラス窓を覗くと、中のカウンターに客の姿も見える。どんな店なのか、新藤は興味がわいた。
火曜の夜、大半の人には週末はまだ遠いが、毎週水曜日が休みの新藤には休日前夜だ。気が付くと引き戸に手をかけていた。
「いらっしゃい」
店主らしい男が声をかけた。黒いTシャツに紺の前掛けをしている。半分以上白くなった髪の毛は肩より少し長く、後ろで一まとめに結わえられていた。新藤より少し年上に見えたから五十代か、いや、もっといっているかもしれない。スーツを着ていない人の年齢ははかりにくい。服装も生き方も自由なまま組織に縛られず生きている。そういう人たちの見た目は驚くほど若い。会社の傘の下でしか生きてこなかった自分は、さぞかし老け込んで見えているのではないかと新藤は思う。
中はカウンターだけで八つ席があった。新藤は一番出入り口に近い椅子に掛け、壁に張られたメニューを見る。焼き鳥や煮込みといったごく普通の飲み屋のメニューだ。
店の奥にあるテレビではローカル局がライオンズ・ロッテ戦を放映している。
店内を興味深く観察していた新藤に、店主がカウンターから出て、おしぼりを置きながらオーダーを取りに来た。
「お飲み物は」
「ああ、生ビールを」
新藤はネクタイを緩めながら答える。店主がカウンターの中に戻ると、テレビから歓声が流れた。奥の席に座っていた客が「おおっ、やったねえ」と声を上げる。ライオンズの中村がホームランを打ち、大きな体を揺すりながらホームを回っているところだった。
「いや、今年の中村はいいねえ。やっと本来の力出してきた感じだなあ、ねえ、マスター」
モスグリーンの作業着を着たその客が、百円ライターでたばこに火をつけると店主に話しかけた。短く刈られたうなじが陽に焼けている。
「そうですねえ、私も一時は中村ももうだめかなあ、なんて思いましたからね」
厨房の中は暑いのだろう、吹き出た額の汗を拭いながら店主が答える。
「ね、そちらの方も同感でしょ?」
テレビを見ながら次は何を注文しようか考えていた新藤は、急に話を振られて言葉に詰まった。
「ああ、すみません……私、野球は詳しくないんで」
「えっ、そうなの。じゃ、ライオンズの話をしても仕方ないねえ」
作業着の男は苦笑いしながらジョッキのビールを口に運んだ。新藤は宮城生まれで実は楽天イーグルスのファンなのだが、今そんな事を口にしたら気まずくなることは火を見るより明らかだ。新藤は焼き鳥の盛り合わせと厚揚げを頼んで、テレビから視線をそらせた。
「次にメットライフ・ドームで試合するときは行かないとなあ。応援したいなあ」
男はたばこを旨そうに吸いながら嬉しそうに話す。新藤はまだ家族がいた頃に、親子三人で東京ドームに行ったことを急に思い出した。あれから何年経ったであろう。
「へっ、大丈夫ですよ、そろそろ日ハムが逆転しますから」
作業着の男の隣で、今まで黙ってビールを飲んでいたもう一人の客が口を挟んできた。黒っぽいシャツに薄汚れたジーンズ姿の男だった。髪の毛もあまり整えられておらず、うっすらと無精ひげが生えている。
「いや、今年のライオンズは行ける。長年応援してきた俺の勘は正しいからな」
作業着は少しむっとした調子で続ける。もう一人の男は挑発するように薄笑いを浮かべた。
「そうですかね、まあせいぜい糠喜びしてくださいよ」
「腹の立つ奴だなあ」
先客二人がどうにも険悪になってきた様子を見て、ここは空気を換えなくては、と新藤はすぐに思い立つ。悲しいかな、営業職の習性なのだ。
「あの、ここの店、名前がどこにも書かれていないけれど、ないんですか、店名?」
新藤が訊くと、焼き鳥の串を回していた店主が答えた。
「ああ、うちの店は『見張り塔』って言うんです」
「見張り塔?」
「はい、表に絵が書かれていたでしょ。あれです」
見張り塔。やはり監視塔のような物だったのか。踏み台ではなかったのだな。
「あの絵が店名って訳ですか。どうしてそんな名前に」
「お客さん、ボブ・ディランって知ってます?」
「ノーベル賞取った人ですよね。文学賞」
「そうそう、私はディランにとても憧れてましてね」
「マスターはノーベル賞取るずっと前からボブ・ディランさんの大ファンなんですよ。もう、筋金入り。半世紀もファンなんだから」
作業着の男が会話に入ってきた。
「源さん、正確には半世紀も経ってないよ。まあほぼ半世紀だけどね」
作業着の男は源さんと言うらしい。焼き鳥の串を返しながら、店主は笑って答える。
五十年近くファンということは、まさか赤ん坊のころからファンではないだろうから六十過ぎか。店主はどうやら新藤よりかなり年長のようである。
「でも、私が心底ディランに憧れていた若い頃は、彼がこの日本に何度もやってくるなんて考えもつかなかった。だいたい、あの人の詞は英語だし、文化も慣習も 違うこの国で、一体何人の日本人が理解できるのだろう、本当に理解できる人間なんて自分を含めて何人もいない、傲慢にもそう思っていました」
「へえ」
「お客さんはどうですか? ディランをお聴きになったりします?」
「いや、まったく。その人の名前もノーベル賞のニュースで知ったくらいで。恥ずかしながら私は音楽に殆ど造詣がありませんで。前の妻の影響でクラシックを聞いていた時期もあったんですが、正直何がいいのかよくわかりませんでした。ところで、ディランさんは日本に何度もやってくると今言われたけど……」
「ええ、今年もやってきます。ロック・フェスティバルに出演するんですよ。もう最後かもしれないので、店を臨時閉店にして行こうと思っています」
「よお、マスター、俺も行こうかな。そんな凄い人をこの目で見られる機会なんてそうないから」
源さんは機嫌をすっかり直したようだった。先刻野球の件で源さんとぶつかっていた日ハムファンの男は、こちらに背を向け一人でビールを飲んでいる。
「あの、それでボブ・ディランと見張り塔の関係は?」
そうなのだ、新藤にはその関連がわからなかった。率直に聞いてみる。
「ああ、彼の代表曲に『見張り塔からずっと』という曲がありまして。じたばたしても世の中は勝手に動いていく、くよくよ考えても仕方ない。そう歌っている曲だと私は勝手に解釈しているんですけれどね。だから会社員をやめて思い切って自分の店を始めるにあたって、曲に敬意を払って店の名にしたんです」
「サラリーマンをなさってたんですか」
「ええ、コピーや事務用品を扱う商社におりました。こう見えても営業成績は悪くなかったんですよ」
「へえ。でも、あえて文字で店の名前を書いていないのは何か理由があるのかな」
「これもまったく思い上がりなんですが、ディランのことがわかる人だけ来てくれればいいと。このアイディアは一緒に店を始めた女房には反対されました。結局 そんな人はほとんど来ない。ただ不思議な外観の店だということが口コミで広がり、いつの間にか店の経営も成り立つようになりました」
店主の言葉を受けて源さんがニコニコした顔で言う。
「私もディランさんなんて知らなかったですよ。ただマスターの人柄とだし巻き卵の味がいいから通ってるだけ。ビールも焼酎もそんなに高くないしね」
「路地価格です。表通りの店と同じ値段設定にしたら誰も来ないって。これは女房の意見でした。『客に媚びてるみたいで嫌だ』っていったら、商売人が売れること考えてどこが悪いんだって、ここは押し切られました。結果、それで良かったんですけど」
新藤は「そうだったんですか。奥様は今日はどちらに?」と尋ねる。
「亡くなりました。もう三年になります。元気だったのに、ちょっと体がだるいとか言って、病院に行ったらすぐ入院。悪性リンパ腫とかいうやつで、一年後に逝っちまいました」
「失礼しました」
「いや、いいんです。でもまあ、あいつの言う通りにして正解だったから、空の上で毒づいてますよ。ほら、あたしの言ったとおりでしょって」
「そうか、よっちゃんがいなくなってもうそんなに経つのか。なんだかついこの間までここでエプロンして笑ってた気がするなあ」
源さんが少ししんみりした調子で言う。
「お客さんは前の奥さんってさっき言ってたけど、再婚なさっているの?」
店主が新藤の前に焼き鳥の盛られた皿を置きながら尋ねた。
「いやいや、離婚してそれからは一人です」
新藤は残り少なくなったビールのジョッキに口をつけながら答えた。
「ああ、そいつはうらやましい。女房なんて口うるさくて、十日に一遍顔見るくらいがいいや」
「おやおや源さん、十日に一度とはまだ愛情があるよね。十年に一度じゃないもの」
「いや、だってよお、洗濯やらメシやらは全部あいつにやってもらってるから、感謝はしてる。してるけど、毎日顔合わせると、いろいろ叱られるからさ」
「そうだね、ここで飲んでちゃだめなんでしょ、本当は」
「おれにも息抜きさせてよ、マスター」
店主と源さんのやり取りを聞きながら新藤は思った。先立たれたり、もう愛情はないと言われたならどんなに楽だろう。自分はずっと暗い海の底にいるような気がする。
そこへ女性の二人組みがやってきた。こちらも常連らしく店主と軽口をきいている。近くの美容院に勤める美容師だという。新藤と源さんの間に二人は座った。
「あれ、初めて見る顔ですね」
大柄で、緑色に染めた髪の上にニット帽をかぶった片方の女性が進藤に話しかけてきた。職業柄きれいにメイクをしているが、目の下に疲れがにじんでいる。
「はい、よろしくお願いしますね」
彼女たちのビールがカウンター奥から手渡された。新藤ももう一杯頼んで三人乾杯をした。自分の頼んだ厚揚げが出てきたので、二人にもすすめると、「わあ、いいんですかあ?」と嬉しそうに箸をつけた。仕事帰りで空腹だったのだろう。
「この辺りに住んでいるの?」ニット帽の彼女が気楽な感じで新藤に話しかけてきた。
「ええ、最近引っ越してきまして」
「仕事で?」
「隣の駅の不動産会社にいるんですよ。土地の仕入れと、営業をやってます」
もう一人の、黒い髪を三つ編みにして真っ赤な口紅をつけた女性が新藤にこう尋ねた。
「へえ、不動産屋さんかあ、私、引越し考えてるんだ。今のマンション狭くて。いい部屋ないかなあ」
「ああ、いろいろありますよ。一度うちの会社にいらっしゃいませんか?」
女性二人は「良かったねえ」「不動産屋さんが知り合いだと心強いかも」と嬉しそうにジョッキを傾けている。
新藤が女性たちにマンションを購入する場合と借りる場合のメリット・デメリットを説明している最中、先刻野球のことで源さんと言い争いになりかけた日ハムファンの男は、スマートフォン片手にふらふらと入り口の引き戸を開けて出て行ってしまった。
「おや? どこ行ったんだろう?」
試合が九回に入ってライオンズの勝利がほぼ確定したこともあり、テレビから目を離した源さんも男が消えたことに気づいた。
「携帯持っていってたから、外で誰かと話しているんじゃないですかねえ」
女性二人が次々とオーダーした料理と酒の準備で忙しそうな店主はフライパンを回しながら答える。
そのまま十分、二十分と経過し、三十分を過ぎたところで「遅すぎるなあ」と源さんが外に様子を見に行った。
「おい、誰もいないぞ、あの野郎、食い逃げだ! いや飲み逃げか」
店主が「ええっ」と声を上げた。美容師二人組みは聞こえていないのか、勤務先の店長の悪口を言い続けている。源さん、向こうがアンチライオンズだったせいもあってますます激昂している。
「あいつ、おかしいと思ってたんだ。初めて来たのに態度でかいし、いろいろ好き勝手言いやがってよお。マスター、どれくらい飲み食いしていった?」
「そんなたいした金額じゃないですよ。料理二、三品とビールとサワーが合計三杯」
「結構な量じゃないか、警察! マスター警察呼んで!」
「どうしたのお?」
ここに来て二人組みの一人がやっと騒ぎに気づいてのんびりと声を上げた。そこにすでに出来上がった感じのスーツ姿の中年二人組みが新しい客として入ってきて、狭い店内は混み合ってきた。新藤は店を出ることにした。
会計を頼み、カウンター越しに店主に金を払う。
「大変でしたね」
「いや、いや、まだわかりませんよ。酔っ払って支払い忘れるだけの人もいますから」
「そうですよね。ところで、いい感じの店ですね。また寄らせてもらいます」
「ありがとうございます。どうか、ごひいきに」
源さんが「無銭飲食、無銭飲食」と騒いでいる店内を出て、新藤は一人歩きだした。
所沢に越してきてもうすぐ一年になる。それまで埼玉は近くても縁がない場所だった。
大学を卒業して入った信託銀行は、最初が神奈川の支店勤務で次は大手町の本店勤務だった。今の不動産会社もこちらへ来る前は学芸大学前の店舗だった。最初は「都落ち」の気分が抜けなかった。
離婚し妻が出て行って一人になった新木場のマンションは広すぎたし通勤にも不便だった。ローンの残るその部屋を人に貸して、所沢で一人暮らしを始めた。正直落ちぶれてしまったと、自虐的な気分にもなった。
そんな投げやりな気持ちで暮らし始めたが、都心に程近いのにあたりには田園風景が広がる。自転車で少し走れば茶畑やぶどう園もある。契約者が自宅で取れた野菜を届けてくれたこともある。大学入学を期に故郷を離れ東京に出てきた新藤に、所沢暮らしは懐かしい気持ちを呼び戻してくれた。
こういう環境も悪くないのかもしれないと思う反面、焦りが湧き上がってくるときもある。自分は実績をあげて本社の財務部長になるはずだったのではないのか。入社したとき「まず実績を見せてください。あなたのような素晴らしい経歴の方に入社していただくのは嬉しいが、うちは実力主義でね」と創業者の息子である現社長に言われたことが頭にこびりついている。自分が銀行でどれだけの大規模なプロジェクトを手がけたか、その手腕を社長や役員たちに見せ付けてやらなくてはけない。入社直後はいつもそう思っていた。
ここで穏やかに暮らすのも悪くないが、このまま所沢周辺の古い地主たちを相手にのんびり仕事し続けることに埋没してはいけないのではないか。自分にだってプライドがある、そう思ってしまうのだ。
夜風に肌を撫ぜられ新藤は大きく息を吐く。それにしても……今日の看板のない店、不思議な店だったな。新藤はプロペ通りを来た時と逆方向に進みながら思った。夜も十一時近くなりさすがに通りの人は減っていたが、まだまだ歩いている人も多い。シャッターが閉まっている店が大半だが、開いている飲食店の看板は変わらず煌々と通りを照らしている。建物の間から広がる夜空には小さく星が光る。
そのまま進むと閉店した百円ショップのシャッターの前に座り込んでいる男がいる。見ると、先ほど店から急にいなくなり、無銭飲食騒ぎを起こした男だ。
両足を投げ出して座り、地面を見ている。店ではそれほど酔っているようには見えなかったが、泥酔しているのかもしれない。
今頃店は大騒ぎになっているに違いない。新藤は以前勤務していた銀行で、尋ねてきた預金者が金利が低いと大声を出して暴れ出し、一一〇番通報したときのことを思い出した。怪我人が出た訳でもないのに、現場検証や聞き取りはずいぶんと仰々しいものだった。源さんも美容師二人組みも、事情聴取でも受けて足止めを食らっているのではないだろうか。
ここで警察に通報した方が良いものか。いやするべきなのだろう。男の姿を見ながら新藤は少し歩く速度を落とした。
その時男が急に新藤の方に顔を上げた。目が合った。まずい、逃げられるな。新藤は立ち止まった。
しかし男は急いで立ち上がるでもなく、相変わらず足を投げ出して座り込んだままだった。そして新藤の顔を見て、ふっと笑った。
少しバツの悪そうな照れたような笑いだった。いたずらを咎められた小さい子供がこんな顔をするよなあ。そう思った新藤は急に警戒心が解け、男の方に歩み寄った。
「あなた、さっき見張り塔の店にいらした方でしょ?」
男はニヤニヤしたまま首を立てに振った。
「お金払うの忘れていたでしょ。お店の人、困ってましたよ」
初めから無銭飲食を決め付けるのも性急すぎるかと、新藤は努めて穏やかに尋ねた。
「さ、戻ってお金払いましょう」
「ないよ」
「えっ」
「金はない。ないものはない」
何ということだ。男は本当に無銭飲食するつもりだったのだ。これでは警察に突き出さない訳にはいくまい。
「……それじゃ、どうして食べたり飲んだりしたんですか。泥棒だろ、あなたのやったことは犯罪だよ」
「いいさ、捕まえてくれよ」
「何でまたそんな風に開き直るんですか」
「俺にはほんとにもう何もない。何もかも無くしてしまったからな」
新藤はその言葉に突然ハッとした。そして男にこう声をかけた。
「……とにかく、もう一度さっきの店に戻りましょう。金は私が立替えます。まず、ご主人に詫びないと」
男の腕を取って立たせた。男はすぐ立ち上がった。存外しっかりした足取りだった。
新藤と男は二人並んで歩いた。店に戻ったら警官がいるかもしれない。払い忘れたため戻ってきたと言えばお咎めなしにしてもらえるだろう。
店に向かいながら新藤は自分の咄嗟の行動に驚いていた。なぜ見ず知らずの男を助けているのか。一文無しで、確信犯の泥棒。素性もわからず、いつこちらの手に噛み付くかもしれないのに。
男はこう言った。何もかも無くしてしまった。そうだ、その言葉に自分は反応したのだ。
仕事も家族も、いつまでもあると思っていたものが気付いたら消えていた。自分の心は彼の言葉に共鳴したのだ。新藤はこう思った。
すぐに店に着いた。引き戸を開けると源さんとサラリーマン客の姿はなく、美容師二人は会計をしているところだった。警察はいない。
店主は一緒に入ってきた二人の姿をみて驚いた様子だったが、すぐに笑顔になった。
「いらっしゃい、いや、お帰りなさい」
「どうも。ちょうど途中でこの人と会ったんですよ。聞いたら、酔ってお金払うの忘れたっていうから。で、それなら払うついでに飲みましょうってことになりましてね……あの、一一〇番は?」
「かけてませんよ、そんなことだろうと思って。また来てくださる大事なお客様かもしれないと思いましたから、実際そうだったでしょ。しかもこんな早くに再来店だ」
テレビのナイター中継はとっくに終わり、画面はバラエティ番組を流している。
美容師二人はこちらを少し見たが、さっきの騒ぎの張本人が戻って来たことに気付いているのかいないのか「じゃ、マスターおやすみいー」と手を振りながら店を出て行った。かなり酔っているようだった。
「じゃ、飲み直しましょう。私はビールを、あなたは?」
「俺は芋焼酎、お湯割で」
「かしこまりました」と店主は何事もなかったように準備をする。
「家はこの近くなんですか」
進藤は男に訊いた。
「いや、違う。住んでいるのは蒲田だ。大田区の」
「へえ、結構遠いですね。今日はどうして所沢へ?」
「まあ、ちょっと気が向いて」
店主が二人の前にビールのジョッキと焼酎の陶製グラスを置いた。
新藤は男に聞いてみたくてたまらなくなっていたことを思い切って尋ねた。
「ねえ、あなたさっき何もかも無くしてしまったって言ってましたよね。もし嫌じゃなかったら教えてください」
男は黙ってグラスを見ていた。進藤が続けた。
「もちろん言いたくなければいいですよ」
男はふん、と鼻で笑った。
「何だよ、俺に生き方指南でもしようっての?」
「めっそうもない」
新藤は黙ってビールに口をつけた。テレビから笑い声が聞こえた。見たこともないコメディアンが動き回っている。男が口を開いた。
「あんた、やけに親切だな。何か、宗教の勧誘でもしようってのか」
「違いますよ」
新藤は男を助けたちょうどいい理由を言おうとしてみた。あなたが悪い人に見えない、とか、たまたま宝くじが当たったから気分が良かったとか、しかしどれもうまく口をついて出てこなかった。そして咄嗟にこう言っていた。
「私は……私はあなたなんですよ、たぶん」
「私はあなた? なんだ、そりゃ」
新藤は頷いた。男は少しの間黙ってお湯割をすすり、口を開いた。
「あんたは俺ほどいい加減じゃないよ。きちんと働いているんだろ?」
「それは、まあ、普通に」
「俺は無職です。三十過ぎてプー太郎です。今まで好き勝手やってきて、何の見通しも立ってない。それでもヘラヘラ笑って生きてるの。あんたみたいに偉い人とは違うの」
男は乾いた声で笑った。苦しそうに見える笑いだった。
「それでふらふらと所沢まで遊びに来たと」
「はい、初めてやってきました」
「どうしてこの街に? ライオンズ嫌いなんでしょ」
男はもっと大きな声で笑い出した。
「そうだよなあ、考えたらおかしいよなあ」
ひいひいと呼吸まで荒くして笑い続けた後で続けた。
「俺が昔一緒に暮らしていた女の実家が所沢なんだよ。それでなんとなくね」
「彼女に会いに来たのですか」
「いや、彼女が今もこの街にいるかなんてわからん。そもそも実家も知らない」
「じゃ、どうして」
「何でだろうなあ」
男はカウンターで頬杖をつき、眉間にしわを寄せ板張りの床をじっと見ながら芋焼酎のお湯割を一口飲んでこう言った。
「昔の俺は夢見たいなことばかりほざいててさ、音楽やったり芝居したり、今の自分は本物じゃないって思ったり、いや、やっぱりどうしようもない出来そこないだって嘆いたり。いつも気持ちがあっち行ったりこっち行ったりしてたんだよ。その一緒に暮らした女はどういうわけかそんな俺にずっと寄り添ってた。呆れるほどだったよ」
「それだけ、あなたのことを思ってたんでしょう」
「どうなんだか。で、音楽も役者もダメだった俺は、これからは脚本家だって思ってシナリオを書き始めた。これがどういうわけかコンテストで入賞しちまって、テレビドラマになった」
「なんていうドラマですか」
「たぶん知らねえよ。『マザー・アース』ってドラマ」
「マザー・アース? 聞いたことがありますねえ。なにか子供が出てくるドラマですよね」
テレビはニュース番組以外ほとんど見ない新藤だが、そのタイトルには聞き覚えがあった。おそらく新聞でタイトルを見たのだろう。
するとカウンターの中で洗いものをしていた店主が声をかけてきた。
「マザー・アース! ってことはもしかして乾ヒロトさんですか」
男は頷いて新藤に尋ねた。
「すいません、もう一杯いい?」
「ああ、どうぞ」
乾はお湯割を注文した。店主は新しいグラスと、枝豆が盛られた皿を彼の前に置いた。
「これ、サービスです。十年くらい前のドラマですよね。あのドラマ好きでしたよ。血の繋がらない親子の話でしたね。私も死んだ女房も大好きで、もう、毎週泣いていました」
「そりゃ、どうも。でも、もう引退しましたら」
「引退、どうして?」
「書けなくなってねえ」
乾はまた乾いてかすれた笑い声をあげて笑った。
「一作目が児童施設の話だったから、二作目もシリアス路線で難病に冒される女子高校生の話にしたら視聴率が最悪でさ。三作目はコメディだったけど、原稿が遅すぎるって出演の大女優に怒られて。もちろん視聴率もぱっとしなかったよ。で、以来いくつか書いても採用されず。もう辞めたよ。今はただの人。元脚本家です」
「もうお書きになるつもりは……」
「ないね。俺は来年四十になる。この世界は若い新しい人材が絶えず入ってくる。テレビ局が欲しいのはそういう奴ら。俺はもう枯れてしまった花みたいなもんだから」
乾は店主の問いかけにこう即答した。
新藤に何も言える訳はなかった。プロの世界はどんなところも厳しい。ましてほんの一握りの才能ある人間だけが選ばれる世界の熾烈さは、たぶんはテレビや映画を楽しむだけの者には想像さえできないのだろう。
「それからバイトを転々としたよ。誰も俺なんか知らないのよ。かっこ悪いよねえ、過去の栄光引きずってると思ってたら、栄光でさえなかったって。それで思ったのさ、だったらもっと、とてつもなくもかっこ悪いことでもしようかと。で、食い逃げ。人生最大の冗談になるかと思って」
言い終わると乾は枝豆を口の中に放り込み、すぐにお湯割で流し込んだ。
「そういうことよ。どう? あんたなんか全然俺と違うでしょ」
新藤は首を横に振った。そしてカウンターの椅子に深く座り直した。
「私も何もかも無くしてしまいました。家族も仕事も、つまらない意地を張って、そして一人でこの街にやってきた」
すべて話してしまいたかった。ずっと誰にも言えなかったこと。胸の奥で澱んでいた思い。乾の告白を聞いて、進藤は堰を切ったように話し出していた。
「私は……大学を卒業してから、信託銀行で働いていました。最初こそ小さな個人の取引が多かったが、本店に異動になり、次第に大きな額の資産を任され運用するようになった。それはそれは面白かった。朝から深夜まで働きづめでも平気でしたよ」
当時は辛いことも多かったはずだが覚えていない。それより巨額の資産がさらに膨らむこと、そして自分が評価され同期の中でも一目置かれるようになることが面白くてたまらなかった。
「友人の結婚式で知り合った妻と三十五の年に結婚して、二年後一人娘が生まれました。可愛かったですよ。娘の世話は殆ど妻に任せたきりでしたけど、自分は妻と娘に人並み以上の暮らしをさせていると思っていましたし」
娘の寝顔しか知らず、休日も接待のゴルフがあると妻や子と触れ合う時間はそう取れなかった。妻に悲しそうな顔をされてもそれが普通だ、どこの家も同じだと信じていた。
「でも、奥さんと子供はいなくなっちゃった訳か。子供連れて出て行ったのかい」
「妻は出て行きましたが娘は違います」
「じゃ、どこにいるの」
「亡くなりました」
乾は口をつぐんだ。新藤は続けた。
「妻と娘がショッピングセンターに買い物に行ったときでした。いきなり暴走してきた車が歩行者用の通路に突っ込んできたそうです。妻は転んだだけでしたが、娘は跳ね飛ばされました。少しの間息があったようでしたが、私が知らせを受けて病院に着いた時にはもう死んでいました。たった五年の人生でした。運転手はアクセルとブレーキを踏み間違えた八十近い婆さんで、何も覚えていないと、泣いて繰り返すだけだったようです」
安置室に寝かされた娘の顔を新藤はまだ忘れられない。きれいな顔で、いつも深夜に帰宅したときに見る寝顔とどこも変わらなかった。彼女がもう起き上がることも笑うこともしないなんて、悪い夢だとしか思えなかった。
「妻だって辛かっただろうけれど、私だって苦しかった。黙っていると気が変になりそうで、だからとにかく、以前の倍働くことにしました。自分の体が悲鳴を上げるまで働き続ける、それで硬いアスファルトに叩き付けられた娘の痛みを感じることができるような気もしていました」
「で、奥さんはなんで出ていったのよ、そんなに頑張ったあんたを残して」
そうだ、それはあの頃新藤が何度も問いかけたことだ。なぜなんだ、どうして今なんだと。
「あなたは自分のことしか考えていない、そう言われました」
新藤はいつの間にかビールのジョッキを開けていた。
「すみません、私もお湯割をください」
カウンターの中の店主は黙って頷き、黙って新藤の前に陶製のグラスを置いた。
「娘が死んで一年を過ぎた頃でしょうかねえ、私の勤めていた銀行が都市銀行の一つに吸収合併されることになりました。私達のいた信託銀行は吸収される側でしたから、合併後地方に飛ばされたり、閑職に追いやられる者が大半でした。家族のことを考えて我慢すると言って残った仲間も多かったのですが、将来を嘱望されていた人間は皆辞めていった。私ももちろんそうしました。で、銀行を辞めることを伝えた翌日、妻は出て行ってしまった。後から離婚届が送られてきました」
「銀行辞めることが奥さんの気に障ったのか」
「私も最初はそう思ったんです。で、とにかく離婚してくれと頑なだった妻と、別居して三ヶ月後に彼女の実家の近くでようやく話ができました」
「じゃ原因は?」
「仕事を辞めることは問題ではない、原因は私がいつも自分自身のことしか見ていない、妻と娘を置き去りにしていたことだと言い張られました。今回も仕事が辛いなら話して欲しかったと。私は妻を心配させたくなかったと言いましたよ。でもね、それは言い訳だと」
新藤はぬるくなったお湯割を一気に飲み干した。いつの間にか液晶テレビは消され、壁の時計は深夜十二時を回ったところだった。
「私は納得できませんでしたけれど、娘を亡くして途方にくれている妻に十分寄り添っていなかったのは事実でした。だから心を入れ替える、許して欲しいと何度も頭を下げました。そうしたらね、妻がこう言いました」
「なんて」
「娘の靴のサイズを知っていたかって」
「靴のサイズ?」
新藤は頷く。
「はっとしました。言葉につまっていると、ほら、あなたは娘のことなんてそんなに愛してなかった、車にはねられた時もすぐに病院にきてくれなかった、と泣かれました。娘の事故の時は会議中で、終わってから携帯のメールに気が付いたので確かに到着がその分遅れてしまった。だけど妻は聞く耳を持たなかった。ずっともめて、結局一年半後離婚に応じました。それからもう六年経ちます」
娘の死がなかったら、別れずにいられたはずなのに。どうして自分ばかりひどい目にあわなくてはいけないのか。何週間か昼も夜も酒を飲み続けながらこう考えた。
「しばらく引きこもってましたが、一緒に銀行を辞めた奴らが次の仕事を見つけて歩き始めてると聞いて、ようやく腰を上げることができました。思ったより再就職は厳しくて、最初の会社は水があわなくて半年で辞めて、ようやく今の不動産会社に落ち着きました。年収は半分近くになりましたが」
肌に付いた傷はかさぶたになりやがて落ちてしまうが、深い傷はいつまでも跡を残す。心も同じなのだ。普段は笑っていられても、ふとした拍子に悲しみが心の表面に浮き出てくる。
「奥さんとはそれっきり?」
「そうですね。家は私の名義だったのでそのまま私が住み、預金は彼女にすべて渡しました。連絡をすると辛くなりそうで」
もしかしたらもう再婚しているのかもしれない。それを見たり聞いたりするのは新藤にはまだ辛すぎた。ただただ心の傷跡がもっと薄くなる日を待つしかないのだろう。
「ところで乾さん、あなたこそ所沢に来たのは、昔付き合っていた女性を思い出したんでしょ。もう会わないんですか」
乾はまた枝豆をつまんでしばらく口を動かしていた。
「会えないさ。あんなに世話になってたのにさ、周りにちやほやされて持ち上げられると一緒にいる女がうっとうしくなってきた。仕事を口実にあいつをほったらかして遊び歩いた。そしたらさ、出て行っちまった。あれ、やっぱりあんたと似ているな。あんた、名前なんていうの?」
「新藤です」
「そっか。でも俺は新藤さんみたいに何とかしようとか、抜け出そうとじたばたしないことに決めたんだよ。人生なんて足掻けばうまくいくもんでもない。書いても書いても浮かび上がれなかった。だからもういいんだよ」
乾は薄笑いを浮かべて話す。どこか寂しそうな笑顔だった。
「俺と暮らした女だって、今さら会ってもざまあ見ろって思うだけだと思うよ。恩を仇で返したようなものだったから
そうだ、それはあの頃新藤が何度も問いかけたことだ。なぜなんだ、どうして今なんだと。
「あなたは自分のことしか考えていない、そう言われました」
新藤はいつの間にかビールのジョッキを開けていた。
「すみません、私もお湯割をください」
カウンターの中の店主は黙って頷き、黙って新藤の前に陶製のグラスを置いた。
「娘が死んで一年を過ぎた頃でしょうかねえ、私の勤めていた銀行が都市銀行の一つに吸収合併されることになりました。私達のいた信託銀行は吸収される側でしたから、合併後地方に飛ばされたり、閑職に追いやられる者が大半でした。家族のことを考えて我慢すると言って残った仲間も多かったのですが、将来を嘱望されていた人間は皆辞めていった。私ももちろんそうしました。で、銀行を辞めることを伝えた翌日、妻は出て行ってしまった。後から離婚届が送られてきました」
「銀行辞めることが奥さんの気に障ったのか」
「私も最初はそう思ったんです。で、とにかく離婚してくれと頑なだった妻と、別居して三ヶ月後に彼女の実家の近くでようやく話ができました」
「じゃ原因は?」
「仕事を辞めることは問題ではない、原因は私がいつも自分自身のことしか見ていない、妻と娘を置き去りにしていたことだと言い張られました。今回も仕事が辛いなら話して欲しかったと。私は妻を心配させたくなかったと言いましたよ。でもね、それは言い訳だと」
新藤はぬるくなったお湯割を一気に飲み干した。いつの間にか壁の液晶テレビは消され、壁の時計は深夜十二時を回ったところだった。
「私は納得できませんでしたけれど、娘を亡くして途方にくれている妻に十分寄り添っていなかったのは事実でした。だから心を入れ替える、許して欲しいと何度も頭を下げました。そうしたらね、妻がこう言いました」
「なんて」
「娘の靴のサイズを知っていたかって」
「靴のサイズ?」
新藤は頷く。
「はっとしました。言葉につまっていると、ほら、あなたは娘のことなんてそんなに愛してなかった、車にはねられた時もすぐに病院にきてくれなかった、と泣かれました。娘の事故の時は会議中で、終わってから携帯のメールに気が付いたので確かに到着がその分遅れてしまった。だけど妻は聞く耳を持たなかった。ずっともめて、結局一年半後離婚に応じました。それからもう六年経ちます」
娘の死がなかったら、別れずにいられたはずなのに。どうして自分ばかりひどい目にあわなくてはいけないのか。何週間か昼も夜も酒を飲み続けながらこう考えた。
「しばらく引きこもってましたが、一緒に銀行を辞めた奴らが次の仕事を見つけて歩き始めてると聞いて、ようやく腰を上げることができました。思ったより再就職は厳しくて、最初の会社は水があわなくて半年で辞めて、ようやく今の不動産会社に落ち着きました。年収は半分近くになりましたが」
肌に付いた傷はかさぶたになりやがて落ちてしまうが、深い傷はいつまでも跡を残す。心も同じなのだ。普段は笑っていられても、ふとした拍子に悲しみが心の表面に浮き出てくる。
「奥さんとはそれっきり?」
「そうですね。家は私の名義だったのでそのまま私が住み、預金は彼女にすべて渡しました。連絡をすると辛くなりそうで」
もしかしたらもう再婚しているのかもしれない。それを見たり聞いたりするのは新藤にはまだ辛すぎた。ただただ心の傷跡がもっと薄くなる日を待つしかないのだろう。
「ところで乾さん、あなたこそ所沢に来たのは、昔付き合っていた女性を思い出したんでしょ。もう会わないんですか」
乾はまた枝豆をつまんでしばらく口を動かしていた。
「会えないさ。あんなに世話になってたのにさ、周りにちやほやされて持ち上げられると一緒にいる女がうっとうしくなってきた。仕事を口実にあいつをほったらかして遊び歩いた。そしたらさ、出て行っちまった。あれ、やっぱりあんたと似ているな。あんた、名前なんていうの?」
「新藤です」
「そっか。でも俺は新藤さんみたいに何とかしようとか、抜け出そうとじたばたしないことに決めたんだよ。人生なんて足掻けばうまくいくもんでもない。書いても書いても浮かび上がれなかった。だからもういいんだよ」
乾は薄笑いを浮かべて話す。どこか寂しそうな笑顔だった。
「俺と暮らした女だって、今さら会ってもざまあ見ろって思うだけだと思うよ。恩を仇で返したようなものだったから」
二人の会話を聞いていたのか、いないのか、厨房でいろいろ仕込みや片づけをしていたらしい店主が、紺の前掛けを締めたままカウンターの外に出てきて新藤に訊いた。
「音楽をかけてもいいですか?」
「もちろん。何をおかけになりますか」
「ボブ・ディランを。お二人に聴いてもらいたくなりました」
カウンターの上のラジカセに店主はCDをセットした。ハーモニカとギターの音が流れ出し、少し投げやりな歌い方の曲が流れ出した。新藤が初めて聴く声だ。
「これがボブ・ディランですか」
「はい」
「この曲が見張り塔の曲?」
「いえ、これはもっと古く発表された曲で、『時代は変わる』って曲です」
乾は「たぶん俺なんかが生まれるずっと前の曲だろう。インターネットが発達した今の状況を見越したような曲名だな」と言いながら薄汚れたバスケットシューズのつま先を曲に合わせて揺らしている。
「そうですよね。まあ、ディランは六十年代の公民権運動が高まってた時代を歌ったらしいんですけど。ところで、私はこの曲の歌詞にすごく好きな部分があるんですよ」
「へえ、どんな詞なの?」
「『今は負け犬でも勝者になれる。時は変わるのだから』ってところです。店を始めて最初客足がぱっとしない日が続いて、女房と心細くなってた時によく聴きました」
「へえ」
「気休めかもしれないけど、毎日聞き続けました。立ち止まらないで変化を受け入れようって歌なんです。人の気持ちも動いていく、だからきっと自分たちもうまくいく、そう思うようにしました」
「そしたらうまくいった、と」
「本来はそういう意味で書かれた詞ではないんでしょうね。それにうまくいっているかはわかりません。まだ道の途中ですから」
「なるほどねえ」
こうして生まれて初めてボブ・ディランをきちんと聴いた新藤は、見張り塔の閉店時間の朝三時まで店主も交え、ディランの他の曲も聴かせてもらいながら乾と 三人で飲み続けた。二人分の会計を済ませたあと、当然電車はなく、乾は新藤のマンションに泊まることになった。
部屋に着くなり、乾は狭いリビングの二人がけソファーに倒れこみ、すぐに眠ってしまった。あきれた新藤も、シャツを脱いでジャージに着替えるとすぐ眠りに落ちた。
翌朝九時過ぎに起きると、乾はテレビをつけ、勝手にキッチンでコーヒーを入れていた。
「おはよう、新藤さんも飲みます?」
「……;ええ、いただきます」
考えると初めて会った、いくらかつて名の売れた脚本家だったか知らないが今は一文無しの、しかも無銭飲食をしようとした男を自宅に泊めるなんて普段の新藤なら考えられなかった。寝ている間に財布を抜かれ逃げられてもおかしくない。
しかしなぜか新藤は乾を見捨てることができなかった。
「はい、入りましたよ」
マグカップに落としたばかりのコーヒーが香ばしい香りをあげている。一人暮らしの家にマグカップは一つしかないため、乾は大きい湯のみ茶碗にコーヒーを入れて飲んでいる。
乾の淹れたコーヒーは旨かった。いつもと同じ豆なのにひときわ香ばしく、安い豆特有の酸味も気にならない。どうやって淹れたのか、体にゆっくり染み渡るような味だった。
「腹が減りましたね。残念ながらうちには何もなくて、外に食いに行きましょう」
「新藤さん、会社は?」
「今日は休みなんですよ。そうでなきゃ、朝まで飲みませんって」
「そうか。でもまたおごらせますよ」
「いいですよ」
乾は昨日と同じ服装で、新藤はTシャツにチノパンを穿いて外に出た。日差しも強くなく、気持ちのいい初夏の朝だった。
歩いて五分ほどの市道沿いにあるチェーン店のうどん屋に入る。窓際の席にかけ、二人で納豆や卵の付いた定食を頼んだ。
新藤は店員の運んできた茶をすすりながら外を見た。通勤、通学の時間は過ぎてしまったため人通りは少ない。
「やっぱり警察に捕まらなくて良かったよ」
乾が言う。彼も静かな平日の通りをガラス窓越しに眺めていた。
「いや、最高の冗談になると思ったんだけどな。自称元脚本家、食い逃げで逮捕って」
「何言ってるんですか。冗談で済まないでしょ。どうして投げやりなんですか、あなたは」
新藤の言葉を受け、へへへ、と乾はまた笑った。
「自分はもうだめだ、だめだと言い聞かせると、頑張らなくていいと思うようになる。ラクチンだからな。でも本当は楽だから頑張らない訳じゃない。努力して報われない無力さを知るのが怖いんだ」
二人の前に定食の盆が運ばれてきた。一緒に割り箸を取り食べ始めた。新藤は思いついてこう言ってみた。
「もう脚本家じゃなくてもいいじゃありませんか。あなたは四十前って言ってましたね。まだ若い」
「そうでもないよ」
「いや、私よりは若いんですから。脚本じゃなくて小説はどうでしょう。まだまだ次に行くチャンスはある」
乾は上目遣いで味噌汁に口をつけながら新藤を見た。そして椀を盆の上に戻した。
「それ、別れた女も言ってた。あなたは書くことしかできないんだから、認められる、認められないに拘らず、書き続けろ。とにかく書くことでしか前に進めないってさ」
新藤は微笑み、乾もつられたように笑顔になった。そして飲みすぎた胃を暖かく満たした朝食が終わり、新藤が金を払って二人は表に出た。
「駅までの道、覚えてないでしょ乾さん。送りますよ」
「ありがとう」
時々横を車が通り抜けるアルファルトの上を二人は並んで歩いた。
「新藤さん、昨晩『俺はあんただ』って言ったけど、やっぱり違うよ」
「そうですか? 私も今は大切なもの無くしてます」
「いや、あんたは俺と間逆。いろんな事にまじめに対応しすぎ。少し投げやりにした方がいいくらいだよ」
「それは……性格的にできなくて」
「こうあるべき、こうしなくちゃって思いが強すぎるんだよ。初めて会った俺なんかを見捨てなかったりさ」
「ダメですかねえ」
「少し外れてみたら? 情けなくてもいいんじゃないの」
「まあ、努力してみます」
「元銀行員は融通きかなくてダメだね」
「すみません」
「まあ、いいや。新藤さん、昨日と今日のお礼に、次は俺がおごるよ」
「そんなのいいですよ」
「ふふ、信じてないんでしょ。まあ、いいや。なんとか近いうちに金を工面してくるから、また見張り塔の店で飲もう。またマスターとあんた、それに俺の三人でボブ・ディランの歌を聴いてみたくなった」
乾は笑顔で言った。それは昨日のどこかひねくれて見える笑顔ではなく、遠足を楽しみにしている子供のように無邪気に明るい笑顔だった。
「店で来日公演を聴きに行く相談をしよう。誰かが代表してチケット買ってさ。あ、もちろんチケット代は各自が負担だよ」
「まあ、あてにしないで待ちますよ」
こうして歩いているうち、新藤と乾は所沢の駅に着いた。駅前のデパートの入り口で食品販売の催事をやっていた。女性の販売員が、三角巾で髪を包み白いエプロン姿で接客をしていた。
「何売ってるんだ、あれ」乾が珍しそうに見ている。
「ああ、狭山茶の菓子でしょう。この辺りは茶の名産地でもあるから、地元の菓子屋で結構作られているんですよ」
新藤と乾が抹茶のシュークリームとロールケーキの並べられた台を眺めながら通りすぎようとした時、乾の足が止まった。
「どうしたんですか?」
「嘘だろ……」
乾は販売員の一人の女性を見ている。やがて、乾の視線に気づいたその女性は、台の後ろから飛び出してきた。
「ヒロト! どうしたの、一体?」
乾は立ち尽くしている。
「もしかして、私がここで働いているのを知って尋ねてきたの?」
「いや、そうじゃない。そうじゃない……ほんと、偶然なんだが」
後ろでロールケーキを手に取った客が「すいませーん」と呼んでいるのを受け、エプロン姿の女性は「はーい、おまちください」と声を張り上げた後、乾に話しかけた。
「十二時半からお昼で交代の人が来るの。それまで待ってて。ご飯、一緒に食べられるでしょ?」
「ユミ、お前何してるんだ?」
「見ればわかるでしょ、ケーキ販売のアルバイトよ」
「そうか、いや、結婚……してないのか?」
「まだよ。話は後で。向かいのドーナツショップでコーヒーでも飲みながら待ってて」
「怒ってないのか、俺のことを」
「そういうのも後にして」
ユミというその女性は元の場所に戻り、ケーキを紙袋に入れて客と話している。乾は信じられないといった表情でデパートの入り口に立ち尽くしたままだ。
新藤はそのまま今来た道を引き返し始めた。乾はもしかしたらもう一晩この町に泊まるかもしれないな。そう思い、歩きながらポケットのスマートフォンを取り出した。
「今何がしたいのか、か」
情けなくてもいい、そうだ、体裁ばかりつくろっていろいろなものを無くしてしまったのだ。今気がついた。
新藤は歩きながら一つの番号を呼び出した。相手は新藤からの電話には、もう出てくれないかもしれない。だが、今思い切らないと、もうかけられない気がした。
短い呼び出し音の後、すぐに相手は出た。
「もしもし」
声が聞こえた。警戒している声ではない。明るい声に聞こえる。新藤は何も言えないでいる。
「あなた、どうしたの? 何かあったの?」
懐かしい呼びかけに胸が詰まった。初夏の日差しの下、新藤は電話を持ったまま立ち止まった。

詩部門正賞

羽化

林哲也


暑さがすこしひいて

庭先の柿の実が大きくふくらんだ

根元に あおむけの蝉

六本の脚が宙をまさぐっている

柿の実が小さかったころ

土を這い出た いかつい姿の幼虫

空をうかがいながら

樹を上っていく

するどい鎌の前脚を

祈るようにそろえ 背を割る

翡翠色にすけた羽の見事な網目もよう

瑞々しい再生の鼓動が聴こえる

立ち会ったおごそかな儀式

無垢な眼が月明かりにきらり光る

蝉は子孫へつなぐ本能をみなぎらせ

残像をおいて未知の空へ向かった

わたしが長い会社勤めの

殻を脱けたとき

自由の匂う風にすぐさま翔びたった

身をととのえる儀式もせず

大地を背に まさぐる脚は

わずかな刻へいのちを賭けた

その明暗を

だれかへ告げているのだろう

空蝉が 羽化のときを掴んだまま

風にゆれている

わたしは

節目のときを身に掴んでいるか

短歌部門準賞

私は私の

大野美波

ウミネコが鳴いて青春始まった引越し先の海は真っ青

日直をしてからその子が気になって恋と呼べるかわからずにいる

いい匂い春が来たよと教えてる親子の熊も風を喜ぶ

春のカバ学校帰りに立ちよってテストの点を食べてもらおう

ウルトラマン家族に支えられておりヒーローでさえバックに親が

見せぬけどすごく努力家そのことは机と私の大事な秘密

不運にもあの子に会った太極拳 そっと隠れるじじばばの背

母の日は五千円でいいからと言った母の目キラリとひかる

さえない日鳥がつついてパンのくず 少しいいことしたと思えり

ババ抜きの弱いあなたはモテるから告白せずに胸がいっぱい

二人同時に失恋し辛いなとはげましあえる友を得たんだ

言わないできっと涙が落ちるから笑顔の私でさよならしたい

窓に指つけたとこから露となりしたたり落ちるこれが人生

「好き」というそんな言葉のリフレイン ベッドの中で一人眠れず

イヌフグリ少女のように咲いていて母が好きだと言っていたっけ

君に会う偶然なんかも期待して浴衣姿で行く夏祭

秋の香をまとった君がまぶしくてきらきらひかるまつ毛に負ける

目玉焼きサニーサイドでお願いとまだいうべきか迷う早朝

カーテンを開けてくれたねそれだけで結婚生活いいと思えた

短歌にはいろんな解釈あるけれど私は私の解釈が好き

もぢずり

花輪純子

あすにせむ いやいや延ばすな今しやれ 二人のわれとまづは茶をのむ

大声で夫と息子がわれを呼ぶ ゴキブリ退治は主婦の役目か

見あたらぬネジ回しに夫といさかひぬ 互ひのネジもゆるびきたるや

それほどに仲良き夫婦と思はねど風邪はわれらを往ったり来たり

「山ちゃん」と言はれたる人山田でも山本でもなく でんと動かぬ

唐突に沈黙やぶりし大くさめ 会議はそれよりなごみて進む

生まれた時から光を知らぬと他人(ひと)ごとのやうに言ふ友われに鍼(はり)打つ

白杖の友は夜道に足を止め 月と星との明るさ問ひ来

停電にうろたへた身の恥づかしさ盲人の友目の前にをれば

盲人の友住むひと間のアパートのすべての置き場変へてはならじ

手ぎはよくわれにりんごを剥きくれて友が盲といふを忘るる

わが庭のもぢずりに触れ盲人は「わあ捩ぢれてる」と高き声あぐ

日を追ひて面差し変はり痩せてゆく姉に怖けし幼きわれは

成長期なるに衰へゆく姉を母は背負ひて病院めぐりぬ

病む姉に母をとられて六歳のわれは天井の木目に怯えき

いまなれば あの外科医なれば助かりぬ ドラマの手術はみな成功す

ホルマリンに漬かりし十二歳(じゅうに)の姉の脳 のちの医術の役に立ちしか

今あらばいま姉あればと思ふこといくたびもあり 兄は居りても

けふ一日まづは日本平和なり トップニュースはパンダの誕生

遠方に行かずともよし買物の行きに帰りに見るさくらばな

俳句部門準賞

秩父朱夏

須田真弓

武甲嶺を大きく据ゑて豆の花

集落を統ぶる十連鯉幟

大寺の一山となり青楓

青梅を水に浸して朝始まる

機織の糸を正して麦は穂に

麦秋の透けて村口見ゆるまで

麻暖簾潜り商家の太柱

大正の米価表ある蔵涼し

打水やその後の長き話し声

産土の茅の輪ほど良き高さかな

落日を入れ茅の輪大きくなりにけり

巡礼の鈴の音消して梅雨出水

夏霧や谷を境の墓域伏せ

笈摺を置きてこの世の心太

蟻塚を覗きて戻る蟻も居て

己が羽銜へてゐたる羽抜鶏

廃線の鉄路の赤し夕立来る

一つづつ用事終へたり蚊遣香

動脈のやうな稜線夏深し

背に武甲山胸に両神日の盛

俳句部門準賞

風のうた

森壽賀子

全山の霊を従へ風光る

春風に乗って少年鳥になる

東風吹かばヨガのポーズをゆっくりと

比良八荒だあれもいない波の上

たんぽぽの旅立つための風になる

今上はまだまだ助走若葉風

浮き沈みする定めなり山背吹く

煩悩を洗ひ流しぬ青田風

茅花流し抱へ切れない古墳かな

英霊の声が届けと南風

非常口に入りきれない青嵐

颱風の眼の中こそは浄土かな

オムレツがうまいと思ふ秋の風

踏み切りを渡りきれない白い風

風を見るために芒となりしかな

その先の空気が読めぬすきま風

北風に磨きぬかれし森である

すさまじき神の声かな虎落笛

産土は遠き道のり雪しまき

人を磨く誇りたかき空っ風

PAGE TOP